・・・しかし実際は部屋の外に、もう一人戸の鍵穴から、覗いている男があったのです。それは一体誰でしょうか?――言うまでもなく、書生の遠藤です。 遠藤は妙子の手紙を見てから、一時は往来に立ったなり、夜明けを待とうかとも思いました。が、お嬢さんの身・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・妻は眼に角を立てて首だけ後ろに廻わして洞穴のような小屋の入口を見返った。暫らくすると仁右衛門は赤坊を背負って、一丁の鍬を右手に提げて小屋から出て来た。「ついて来う」 そういって彼れはすたすたと国道の方に出て行った。簡単な啼声で動物と・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 獲物を、と立って橋の詰へ寄って行く、とふわふわと着いて来て、板と蘆の根の行き逢った隅へ、足近く、ついと来たが、蟹の穴か、蘆の根か、ぶくぶく白泡が立ったのを、ひょい、と気なしに被ったらしい。 ふッ、と言いそうなその容体。泡を払うがご・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・に趣味とか詩とか、或は理想といい美術的といい、美術生活などと、それは見事に物を言うけれど、其平生の趣味好尚如何と見ると、実に浅薄下劣寧ろ気の毒な位である、純詩的な純趣味的な、茶の湯が今日行われないは、穴勝無理でない、当世人士の趣味と、茶の湯・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・』『砲弾か小銃弾か?』『穴は大きい』『じゃア、後方にさがれ!』『かしこまりました!』て一心に僕は駆け出したんやだど倒れて夢中になった。気がついて見たら『しっかりせい、しつかりせい』と、独りの兵が僕をかかえて後送してくれとった・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・晩年には益々昂じて舶来の織出し模様の敷布を買って来て、中央に穴を明けてスッポリ被り、左右の腕に垂れた個処を袖形に裁って縫いつけ、恰で酸漿のお化けのような服装をしていた事があった。この服装が一番似合うと大に得意になって写真まで撮った。服部長八・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 笛には、いくつかの小さな穴があいています。 その一つ一つの穴から、吹くと、ちがった音が出ました。 笛は短い赤と青とに、その色が塗り分けてありました。 大きな穴が一つ、小さな同じような穴が五つあいていました。 二郎がそれ・・・ 小川未明 「赤い船のお客」
・・・ 女はにこりともせずにそう言うと、ぎろりと眇眼をあげて穴のあくほど私を見凝めた。 私は女より一足先に宿に帰り、湯殿へ行った。すると、いつの間に帰っていたのか、隣室の男がさきに湯殿にはいっていた。 ごろりとタイルの上に仰向けに寝そ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・併し今日ではそのゴム鞠に穴があいて、凹めば凹んだなりの、頼りも張合いもない状態になっている。好感興悪感興――これはおかしな言葉に違いないが、併し人間は好い感興に活きることが出来ないとすれば、悪い感興にでも活きなければならぬ、追求しなければな・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・一つの窓は樹木とそして崖とに近く、一つの窓は奥狸穴などの低地をへだてて飯倉の電車道に臨む展望です。その展望のなかには旧徳川邸の椎の老樹があります。その何年を経たとも知れない樹は見わたしたところ一番大きな見事なながめです。一体椎という樹は梅雨・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
出典:青空文庫