・・・子供が夜中に、へんな咳一つしても、きっと眼がさめて、たまらない気持になる。もう少し、ましな家に引越して、お前や子供たちをよろこばせてあげたくてならぬが、しかし、おれには、どうしてもそこまで手が廻らないのだ。これでもう、精一ぱいなのだ。おれだ・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・ 女たちのほうの観察をもう少ししたいと思ったけれど、どうもそのほうは誰も遠慮して話してくれない。それに、その女たちにも会う機会がない。遺憾だとは思ったが、しかたがないので、そのまま筆をとることにした。 六月の二日か三日から稿を起こし・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・ 桑木博士と対話の中に、蒸気機関が発明されなかったら人間はもう少し幸福だったろうというような事があったように記憶している。また他の人と石炭のエネルギーの問題を論じている中に、「仮りに同一量の石炭から得られるエネルギーがずっと増したとすれ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・どうも変だというので、百姓に聞いて見るてえと、もう少し前に、士官が一人鉄橋を渡って行くのを見かけたという話だ。帰って来さっしゃらねえところを見ると、どうも可怪いと云う。さア大変秋山を殺すなという騒ぎになって、××じゃ将校連が集って、急いで人・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・その次には、自分の浮気や得意はこの場限りで、もう少しすると平生の我に帰るのだが、ほかの人のは、これが常態であって、家へ帰っても、職務に従事しても、あれでやっているんだと己惚れます。すると自分はどうしてもここにいるべきではないとなる。宅へ帰っ・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・この音楽がもう少しこのまま聞えていて、己の心を感動させてくれれば好い。これを聞いている間は、何だか己の性命が暖かく面白く昔に帰るような。そして今まで燃えた事のある甘い焔が悉く再生して凝り固った上皮を解かしてしまって燃え立つようだ。この良心の・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・僕はもう少し習ったらうちの田をみんな一枚ずつ測って帳面に綴じておく。そして肥料だのすっかり考えてやる。きっと今年は去年の旱魃の埋め合せと、それから僕の授業料ぐらいを穫ってみせる。実習は今日も苗代掘りだった。四月八日 水、今日は実・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・という、あすこいらの表現の緊めかたでもう少しの奥行が与えられたのではなかろうかと思う。特に、最後の場面で再び女万歳師となったおふみ、芳太郎のかけ合いで終る、あのところが、私には実にもう一歩いき進んだ表現をとのぞまれた。このところは、恐らく溝・・・ 宮本百合子 「「愛怨峡」における映画的表現の問題」
・・・お前も、ゆっくり寝てるがいい。もう少しお前が良くなれば、俺はお前を負んぶして、ここの花園の中を廻ってやるよ。」「うむ、」と妻は静に頷いた。 彼は危く涙が出そうになると、やっと眉根で受けとめたまま花壇の中へ降りて来た。彼は群がった夜の・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・これまでの日本画が欲しなかった所を欲し、これまでの日本画が好んだ所を捨てるという人が、竜子氏のほかにももう少し現われて来てよかろうと思う。それがない限り日本画の絵の具や筆は今以上の事をなさしめないだろう。それがあるとともに絵の具や筆は新しい・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫