・・・常陸の湯にひかせ候はんと思ひ候が、若し人にもとられ候はん、又その外いたはしく覚えば、上総の藻原の殿のもとに預け置き奉るべく候。知らぬ舎人をつけて候へば、をぼつかなく覚え候。」 これが日蓮の書いた最後の消息であった。 十月八日病革まる・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 松木も丘をよじ登って行く一人だった。 彼は笑ってすませるような競争者がなかった。 彼は、朗らかな、張りのある声で、「いらっしゃい、どうぞ!」と女から呼びかけられたこともなかった。 若しそれが恋とよばれるならば、彼の恋は不如・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・手のさきや、肩で一寸押したぐらいではびくともしない。全身の力をこめて、うんと枕木を踏んばり、それで前へ押さなきゃならない。しかも力をゆるめるとすぐ止る。で、端から端まで、――女達のいるところから、ケージのおりて来るところまで、――枕木を踏ん・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・自分に対して甚しく憎悪でもしているかとちょっと感じたが、自分には何も心当りも無い。で、「どうかなさいましたか。」と訊く。返辞が無い。「気色が悪いのじゃなくて。」とまた訊くと、うるさいと云わぬばかりに、「何とも無い。」・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・しかし年は若し勢いは強い時分だったからすぐにまた思い返して、なんのなんの、心さえ慥なら決してそんなことがあろうはずはないと、ひそかに自から慰めていた。」と云いかけて再び言葉を淀ました。妻は興有りげに一心になって聞いている。庭には梧桐を動・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・なにものの威力も、抗することはできぬ。もしどうにかしてそれをのがれよう、それに抗しようと、くわだてる者があれば、それは、ひっきょう痴愚のいたりにすぎぬ。ただこれは、東海に不死の薬をもとめ、バベルに昇天の塔をきずかんとしたのと、同じ笑柄である・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・前の事実、何人も争う可らざる事実ではない歟、死の来るのは一個の例外を許さない、死に面しては貴賎・貧富も善悪・邪正も知愚・賢不肖も平等一如である、何者の知恵も遁がれ得ぬ、何者の威力も抗することは出来ぬ、若し如何にかして其を遁がれよう、其れに抗・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・の上田のところへ、母が出掛けて行ったの。若しも上田の進ちゃんまでやられたとすれば、事件としても只事でない事が分るし、又若しまだやって来ていないとすれば、始末しなければならない事もあるだろうし、直ぐ知らせなければならない人にも、知らせることが・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・と自分は学生生活もしたらしい男の手を眺めて、「僕も君等の時代には、随分困ったことがある――そりゃあもう、辛い目に出遇ったことがある。丁度君が今日の境遇を僕も通り越して来たものさ。さもなければ、君、誰がこんな忠告なぞするものか、実際君の苦しい・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・それにしても太郎はまだ年も若し、結婚するまでにも至っていない。すくなくも二人もしくは二人半の働き手を要するのが普通の農家である。それを思うと、いかに言っても太郎の家では手が足りなかった。私が妹に薄くしてもと考えるのは、その金で兄の手不足を補・・・ 島崎藤村 「分配」
出典:青空文庫