・・・編集員の机が五脚ほど並べられてあるが、かれの机はその最も壁に近い暗いところで、雨の降る日などは、ランプがほしいくらいである。それに、電話がすぐそばにあるので、間断なしに鳴ってくる電鈴が実に煩い。先生、お茶の水から外濠線に乗り換えて錦町三丁目・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・「露国の名誉ある貴族たる閣下に、御遺失なされ候物品を返上致す機会を得候は、拙者の最も光栄とする所に有之候。猶将来共。」あとは読んでも見なかった。 おれはホテルを出て、沈鬱して歩いていた。頼みに思った極右党はやはり頼み甲斐のない男であった・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・学者の中で彼ほど書物の所有に冷淡な人も少ないと云われている。尤も彼のような根本的に新しい仕事に参考になる文献の数は比較的極めて少数である事は当然である。いわゆるオーソリティは彼自身の頭蓋骨以外にはどこにも居ないのである。 彼の日常生活は・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・アインシュタインの芸術方面における趣味の中で最も顕著なものは音楽である。彼の弾くヴァイオリンが一人前のものだという事は定評であるらしい。かなりテヒニークの六ヶしいブラームスのものでも鮮やかに弾きこなすそうである。技術ばかりでなくて相当な理解・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・入営中の勉強っていうものが大したもんで、尤も破格の昇進もしました。それがお前さん、動員令が下って、出発の準備が悉皆調った時分に、秋山大尉を助けるために河へ入って、死んじゃったような訳でね。」「どうして?」 爺さんは濃い眉毛を動かしな・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・最後の審判は我々が最も奥深いものによって定まるのである。これを陛下に負わし奉るごときは、不忠不臣のはなはだしいものである。 諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見做されて殺された。諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・の態度を持すと声明していた。尤もそれを信用する争議団員は一人もありはしなかったが……しかし、モウ今日では、利平達は、社長の唯一の手足であり、杖であった。会社の浮沈を我身の浮沈と考えていた。彼等は争議団員中の軟派分子を知っていた。またいろいろ・・・ 徳永直 「眼」
・・・植物の中で最も樹齢の長いものと思われている松柏さえ時が来ればおのずと枯死して行くではないか。一国の伝統にして戦争によって終局を告げたものも、仮名づかいの変化の如きを初めとして、その例を挙げたら二、三に止まらぬであろう。昭和廿二年二月・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・私は是非とも、新に二度目の飼犬を置くように主張したが、父は犬を置くと、さかりの時分、他処の犬までが来て生垣を破り、庭を荒すからとて、其れなり、家中には犬一匹も置かぬ事となった。尤も私は、その以前から、台所前の井戸端に、ささやかな養所が出来て・・・ 永井荷風 「狐」
・・・器械的な自然界の現象のうち、尤も単調な重複を厭わざるものには、すぐこの型を応用して実生活の便宜を計る事が出来るかも知れない。科学者の研究が未来に反射するというのはこのためである。しかし人間精神上の生活において、吾人がもし一イズムに支配されん・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
出典:青空文庫