・・・実際敵を持つ兵衛の身としては、夜更けに人知れず仏参をすます事がないとも限らなかった。 とうとう初夜の鐘が鳴った。それから二更の鐘が鳴った。二人は露に濡れながら、まだ寺のほとりを去らずにいた。 が、兵衛はいつまで経っても、ついに姿を現・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・少年は舞台に見入ったまま、ほとんど息さえもつこうとしない。彼にもそんな時代があった。……「余興やめ! 幕を引かんか? 幕! 幕!」 将軍の声は爆弾のように、中佐の追憶を打ち砕いた。中佐は舞台へ眼を返した。舞台にはすでに狼狽した少尉が・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・フランシスはやがて自分の纏ったマントや手に持つ笏に気がつくと、甫めて今まで耽っていた歓楽の想出の糸口が見つかったように苦笑いをした。「よく飲んで騒いだもんだ。そうだ、私は新妻の事を考えている。しかし私が貰おうとする妻は君らには想像も出来・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・いわんやそれが人事に密接な関係をもつ思想知識になってくると、なおのことであるといわなければならない。この事実が肯定されるなら、私がクロポトキンやレーニンやについて言ったことは、奇矯に過ぎた言い分を除去して考えるならば、当然また肯定さるべきも・・・ 有島武郎 「片信」
・・・おれは細君を持つまでは今の通りやるよ。きっとやってみせるよ。A 細君を持つまでか。可哀想に。しかし羨ましいね君の今のやり方は、実はずっと前からのおれの理想だよ。もう三年からになる。B そうだろう。おれはどうも初め思いたった時、君のや・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・この反感の反感から、私は、まだ未成品であったためにいろいろの批議を免れなかった口語詩に対して、人以上に同情をもつようになった。 しかしそのために、熱心にそれら新しい詩人の作を読むようになったのではなかった。それらの人々に同情するというこ・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・尾で立ってちょこちょこ歩行いて、鰭で棹を持つのかよ、よう、姉さん。」「そりゃ鰹や、鯖が、棹を背負って、そこから浜を歩行いて来て、軒へ踞むとはいわないけれど、底の知れない海だもの、どんなものが棲んでいて、陽気の悪い夜なんぞ、浪に乗って来よ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・そんで、へい、苧殻か、青竹の杖でもつくか、と聞くと、それは、ついてもつかいでも、のう、もう一度、明神様の森へ走って、旦那が傍に居ようと、居まいと、その若い婦女の死骸を、蓑の下へ、膚づけに負いまして、また早や急いで帰れ、と少し早めに糸車を廻わ・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・谷を攀じ、峰にのぼり、森の中をくぐりなどして、杖をもつかで、見めぐるにぞ、盗人の来て林に潜むことなく、わが庵も安らかに、摩耶も頼母しく思うにこそ、われも懐ししと思いたり。「食べやしないんだよ。爺や、ただ玩弄にするんだから。」「それな・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・温泉で、見知越で、乗合わした男と――いや、その男も実は、はじめて見たなどと話していると、向う側に、革の手鞄と、書もつらしい、袱紗包を上に置いて、腰を掛けていた、土耳古形の毛帽子を被った、棗色の面長で、髯の白い、黒の紋織の被布で、人がらのいい・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
出典:青空文庫