・・・「家にあれば笥にもる飯を草まくら旅にしあれば椎の葉にもる」とは行旅の情をうたったばかりではない。我我は常に「ありたい」ものの代りに「あり得る」ものと妥協するのである。学者はこの椎の葉にさまざまの美名を与えるであろう。が、無遠慮に手に取っ・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・この上私が沈黙を守るとすればそれは徒に妻を窘める事になるよりほかはございません。そこで、私は、額にのせた氷嚢が落ちないように、静に顔を妻の方へ向けながら、低い声で「許してくれ。己はお前に隠して置いた事がある。」と申しました。そうしてそれから・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・ 居鎮まって見ると隙間もる風は刃のように鋭く切り込んで来ていた。二人は申合せたように両方から近づいて、赤坊を間に入れて、抱寝をしながら藁の中でがつがつと震えていた。しかしやがて疲労は凡てを征服した。死のような眠りが三人を襲った。 遠・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ ひたひたと木の葉から滴る音して、汲かえし、掬びかえた、柄杓の柄を漏る雫が聞える。その暗くなった手水鉢の背後に、古井戸が一つある。……番町で古井戸と言うと、びしょ濡れで血だらけの婦が、皿を持って出そうだけれども、別に仔細はない。……参詣・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ 清水の面が、柄杓の苔を、琅ろうかんのごとく、梢もる透間を、銀象嵌に鏤めつつ、そのもの音の響きに揺れた。「まあ、あれ、あれ、ご覧なさいまし、長刀が空を飛んで行く。」…… 榎の梢を、兎のような雲にのって。「桃色の三日月様のよう・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・御堂の壇に、観音の緑髪、朱唇、白衣、白木彫の、み姿の、片扉金具の抜けて、自から開いた廚子から拝されて、誰が捧げたか、花瓶の雪の卯の花が、そのまま、御袖、裳に紛いつつ、銑吉が参らせた蝋燭の灯に、格天井を漏る昼の月影のごとく、ちらちらと薄青く、・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ ――逢いに来た――と報知を聞いて、同じ牛込、北町の友達の家から、番傘を傾け傾け、雪を凌いで帰る途中も、その婦を思うと、鎖した町家の隙間洩る、仄な燈火よりも颯と濃い緋の色を、酒井の屋敷の森越に、ちらちらと浮いつ沈みつ、幻のように視たので・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・媼しずかに顧みて、 やれ、虎狼より漏るが恐しや。 と呟きぬ。雨は柿の実の落つるがごとく、天井なき屋根を漏るなりけり。狼うなだれて去れり、となり。 世の中、米は高価にて、お犬も人の恐れざりしか。明治四十三年九月・十一月・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・月影ながらもる夏は、山田の筧の水とかや。――…… 十一 翌日の午後の公園は、炎天の下に雲よりは早く黒くなって人が湧いた。煉瓦を羽蟻で包んだような凄じい群集である。 かりに、鎌倉殿としておこう。この・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 八口を洩る紅に、腕の白さのちらめくのを、振って揉んで身悶する。 きょろんと立った連の男が、一歩返して、圧えるごとくに、握拳をぬっと突出すと、今度はその顔を屈み腰に仰向いて見て、それにも、したたかに笑ったが、またもや目を教授に向けた・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
出典:青空文庫