・・・ ソビエットを守るパルチザンの襲撃は鋭利になりだした。日本の兵士は、寒気のために動作の敏活を失った。むくむくした毛皮の外套を豪猪のようにまんまるくなるまで着こまなければならない。左右の手袋は分厚く重く、紐をつけた財布のように頸から吊るし・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ 堂のこなた一段低きところの左側に、堂守る人の居るところならんと思しき家ありて、檐に響板懸り、それに禅教尼という文字見えたり。ここの別当橋立寺と予て聞けるはこれにやと思いつつ音ない驚かせば、三十路あまりの女の髪は銀杏返しというに結び、指・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・背をかがめ身を窄めでは入ること叶わざるまで口は狭きに、行くては日の光の洩るる隙もなく真黒にして、まことに人の世の声も風も通わざるべきありさま、吾他が終に眠らん墓穴もかくやと思わるるにぞ、さすがに歩もはかばかしくは進まず。されど今さら入らずし・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・笥にもるいいを椎の葉のなぞと上品の洒落など云うところにあらず。浅虫にいでゆあるよしなれど、みちなかなればいらずありき、途中帽子を失いたれど購うべき余裕なければ、洋服には「うつり」あしけれど手拭にて頬冠りしけるに、犬の吠ゆること甚しければ自ら・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・しかし彼は餌を盛るべき何物をも持っていなかった。彼は古新聞紙の一片に自分の餌を包んで来たのであったから。差当って彼も少年らしい当惑の色を浮めたが、予にも好い思案はなかった。イトメは水を保つに足るものの中に入れて置かねば面白くないのである。・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・お三輪が小竹の隠居と言われる時分には、旦那は疾くにこの世にいない人で、店も守る一方であったが、それでも商法はかなり手広くやり、先代が始めた上海の商人との取引は新七の代までずっと続いていた。 お三輪は濃い都会の空気の中に、事もなく暮してい・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・わが心は依然として空虚な廃屋のようで、一時凌ぎの手入れに、床の抜けたのや屋根の漏るのを防いでいる。継ぎはぎの一時凌ぎ、これが正しく私の実行生活の現状である。これを想うと、今さらのように armer Thor の嘆が真実であることを感ずる。・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・くずおれておかあさんはひざをつき、子どもをねかしてその上を守るように自分の頭を垂れますと、長い毛が黒いベールのように垂れ下がりました。 しかして両手をさし出してだまったなりでいのりました。子どもの額からは苦悶の汗が血のしたたりのように土・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・私には、なんにも知らせず、それこそ私の好きなように振舞わせて置いてくれましたが、兄たちは、なかなか、それどころでは無く、きっと、百万以上はあったのでしょう、その遺産と、亡父の政治上の諸勢力とを守るのに、眼に見えぬ努力をしていたにちがいありま・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・それは、あとあと迄、あの人の名誉を守るよすがともなろう。女二人に争われて、自分は全く知らぬ間に、女房は殺され、情婦は生きた。ああ、そのことは、どんなに芸術家の白痴の虚栄を満足させる事件であろう。あの人は、生き残った私に、そうして罪人の私に、・・・ 太宰治 「女の決闘」
出典:青空文庫