レーリー家の祖先は一六六〇年頃エセックス州のモルドン附近に若干の水車を所有して粉磨業を営んでいた。一七二〇年頃ターリングに新しく住家を求め、その後 Terling Place の荘園を買った。その邸宅はもとノリッチ僧正の宮・・・ 寺田寅彦 「レーリー卿(Lord Rayleigh)」
・・・お妾はいつでもこの時分には銭湯に行った留守のこと、彼は一人燈火のない座敷の置炬燵に肱枕して、折々は隙漏る寒い川風に身顫いをするのである。珍々先生はこんな処にこうしていじけていずとも、便利な今の世の中にはもっと暖かな、もっと明い賑かな場所がい・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・夏の日の上りてより、刻を盛る砂時計の九たび落ち尽したれば、今ははや午過ぎなるべし。窓を射る日の眩ゆきまで明かなるに、室のうちは夏知らぬ洞窟の如くに暗い。輝けるは五尺に余る鉄の鏡と、肩に漂う長き髪のみ。右手より投げたる梭を左手に受けて、女はふ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・苦しきに堪えかねて、われとわが頭を抑えたるギニヴィアを打ち守る人の心は、飛ぶ鳥の影の疾きが如くに女の胸にひらめき渡る。苦しみは払い落す蜘蛛の巣と消えて剰すは嬉しき人の情ばかりである。「かくてあらば」と女は危うき間に際どく擦り込む石火の楽みを・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・蔦鎖す古き窓より洩るる梭の音の、絶間なき振子の如く、日を刻むに急なる様なれど、その音はあの世の音なり。静なるシャロットには、空気さえ重たげにて、常ならば動くべしとも思われぬを、ただこの梭の音のみにそそのかされて、幽かにも震うか。淋しさは音な・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ これらの人は自己の主張を守るの点において志士である。主張を貫かんとするの点において勇士である。主張の長所を認むるの点において智者である。他意なく人のために尽さんとするの点において善人である。ただ自他の関係を知らず、眼を全局に注ぐ能わざ・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
・・・徳利自身に貴重な陶器がないとは限らぬが、底が抜けて酒を盛るに堪えなかったならば、杯盤の間に周旋して主人の御意に入る事はできんのであります。今かりに大弾丸の空裏を飛ぶ様を写すとする。するとこれを見る方に二通りある。一は単に感覚的で、第一に述べ・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・高き窓洩る夕日を脊に負う、二人の黒き姿の、この世の様とも思われぬ中に、抜きかけた剣のみが寒き光を放つ。この時ルーファスの次に座を占めたるウィリアムが「渾名こそ狼なれ、君が剣に刻める文字に耻じずや」と右手を延ばしてルーファスの腰のあたりを指す・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・只眼にあまる情けと、息に漏るる嘆きとにより、昼は女の傍えを、夜は女の住居の辺りを去らぬ誠によりて、我意中を悟れかしと物言わぬうちに示す」クララはこの時池の向うに据えてある大理石の像を余念なく見ていた。「第二を祈念の時期と云う。男、女の前に伏・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・山と盛る鹿の肉に好味の刀を揮う左も顧みず右も眺めず、只わが前に置かれたる皿のみを見詰めて済す折もあった。皿の上に堆かき肉塊の残らぬ事は少ない。武士の命を三分して女と酒と軍さがその三カ一を占むるならば、ウィリアムの命の三分二は既に死んだ様なも・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
出典:青空文庫