・・・たとえば妙な紅炎が変にとがった太陽の縁に突出しているところなどは「離れ小島の椰子の木」とでも言いたかった。 科学の通俗化という事の奨励されるのは誠に結構な事であるが、こういうふうに堕落してまで通俗化されなければならないだろうかと思ってみ・・・ 寺田寅彦 「断水の日」
・・・活力の満ちた、しめっぽい熱帯の空気が鼻のあなから脳を襲う。椰子の木や琉球の芭蕉などが、今少し延びたら、この屋根をどうするつもりだろうといつも思うのであるが、きょうもそう思う。ハワイという国には肺病が皆無だとだれかの言った事を思い出す。妻は濃・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
・・・ 某百貨店の入口の噴水の傍の椰子の葉蔭のベンチに腰かけてうっとりしているうちに、私はこんな他愛もない夢を見ていたのである。 二 地図をたどる 暑い汽車に乗って遠方へ出かけ、わざわざ不便で窮屈な間に合せの生活を求・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・自分はこのような植物の茂っている熱帯の樹林を想像しているうちにシンガポールに遊んだ日を思い出した。椰子の木の森の中を縫う紅殻色の大道に馬車を走らせた時の名状のできない心持ちだけは今でもありあり胸に浮かんで来るが、細かい記憶は夢のように薄れて・・・ 寺田寅彦 「病室の花」
・・・そこには、洋服は洋服だが、椰子の木の生えたひろい畑の隅に、跣足で柄の長い鍬をもった林のお父さんと、傍に籠をもってしゃがんでいるお母さんとがならんでいた。「とても働いたんだネ、働いて金持になって、今のお店を作ったんだ」「フーム」「・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・まして台湾以南の熱帯地方では椰子とかバナナとかパインアップルとかいうような、まるで種類も味も違った菓物がある。江南の橘も江北に植えると枳殻となるという話は古くよりあるが、これは無論の事で、同じ蜜柑の類でも、日本の蜜柑は酸味が多いが、支那の南・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・そのスタートに立って僕は待っていたねえ、向うの島の椰子の木は黒いくらい青く、教会の白壁は眼へしみる位白く光っているだろう。だんだんひるになって暑くなる、海は油のようにとろっとなってそれでもほんの申しわけに白い波がしらを振っている。 ひる・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・何だか少し野師のようでしょう? でもこの小学校のせいで、私は何年ぶりかで土曜日の午後、日曜日、そして休みのつづくのをしんからたのしんで仕事する味を味わって居ります。 一昨日は、この十日に生れた太郎[自注23]が、産院から林町へかえるので・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・もちろんいかさま野師もその間を歩いては行くのだが、目につくのは並木のはてまで子供、子供だ。アルバートのゴーゴリ坐像の膝があいているのが不思議ぐらいな賑いである。 ソヴェト市民の大部分は日本と中国の区別を、地理的にも風俗史的にも頭の中にも・・・ 宮本百合子 「子供・子供・子供のモスクワ」
・・・ 万治元戊戌年十二月二日興津弥五右衛門華押 皆々様 この擬書は翁草に拠って作ったのであるが、その外は手近にある徳川実記と野史とを参考したに過ぎない。皆活板本で実記は続国史大系本である。翁草に興津が殉死したのは三・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
出典:青空文庫