・・・もよい、只其名目を弄んで精神を味ねば駄目と云う迄である、予が殊に茶の湯を挙たのは、茶の湯が善美な歴史を持って居るのと、生活に直接で家庭的で、人間に尤も普遍的な食事を基礎として居る点が、最も社会と調和し易いからである、他の品位ある多くの芸術は・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・ お繁さんは東京の某女学校を卒業して、帰った間もなくで、東京なつかしの燃えてる時であったから、自然東京の客たる予に親しみ易い。一日岡村とお繁さんと予と三人番神堂に遊んだ。お繁さんは十人並以上の美人ではないけれど、顔も姿もきりりとした関東・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・心易いものと心易いものが、お互いに死出の友を求めて組みし合い、抱き合うばかりにして突進した。今から思て見ると、よく、まア、あないな勇気が出たことや。後について来ると思たものが足音を絶つ、並んどったものが見えん様になる、前に進むものが倒れてし・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・その頃偶っと或る会で落合った時、あたかも私が手に入れた貞享の江戸図の咄をすると、そんな珍本は集めないよ、僕のは安い本ばかりだと、暗に珍本無用論を臭わした。が、その口の端から渋江抽斎の写した古い武鑑が手に入ったといって歓喜と得意の色を漲らした・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・毎日新聞社は南風競わずして城を明渡さなくてはならなくなっても安い月給を甘んじて悪銭苦闘を続けて来た社員に一言の挨拶もなく解散するというは嚶鳴社以来の伝統の遺風からいっても許しがたい事だし、自分の物だからといって多年辛苦を侶にした社員をスッポ・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・常識にまで低下して、何等の詩なく、感激なき作品が、たゞ面白いというだけで、また取りつき易いというだけでは、彼等と雖も、決して、これをいゝとは思っていないであろう。また、たとい、それに何が書かれていようと、すでに精神に於て、民衆を教化するとは・・・ 小川未明 「作家としての問題」
・・・ 和本は、虫がつき易いからというけれど、この頃の洋書風のものでも、十年も書架に晒らせば、紙の色が変り、装釘の色も褪せて、しかも和本に於けるように雅致の生ずることもなく、その見すぼらしさはないのであります。 これから見ても、和本は、出・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
・・・ 都会人のある者は、彼等の辛苦について、労働については、あまり考えないで、安いとか、高いとかいって、商人の手から買い、安いければ、安いで無考えに消費するまでのことです。「今年は、西瓜が安い、また豆が安い……」と言って、消費者は喜びま・・・ 小川未明 「街を行くまゝに感ず」
・・・私を送って行った足で上りこむなり、もう嫌味たっぷりに、――高津神社の境内にある安井稲荷は安井さんといって、お産の神さんだのに、この子の母親は安井さんのすぐ傍で生みながら、産の病で死んでしまったとは、何と因果なことか……と、わざとらしく私の生・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・で栗ぜんざい一杯とおすましとおはぎ食べてこましたりましてんと、彼女はその安い豪遊をいい触らすのである。「月ヶ瀬」は戎橋の停留所から難波へ行く道の交番所の隣にあるしるこ屋で、もとは大阪の御寮人さん達の息抜き場所であったが、いまは大阪の近代・・・ 織田作之助 「大阪発見」
出典:青空文庫