・・・界隈の娘に安い月謝で三味線を教えてくらしていたがきこえて来るのは、年中、「高い山から谷底見れば」ばかり、つまりは、弟子が永続きしないのだった。それというのも、新しい弟子が来ると、誰彼の見境いもなしに灸をすえてやろうと、執拗く持ちかけるからで・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・すると、元来熱狂し易い彼は、寿子を大物にするために、すべてを犠牲にしようと思った。 彼はヴァイオリン弾きとしての自分の恵まれぬ境遇を振りかえってみた。そして、自分の音楽への情熱と夢を、娘の寿子によって表現しようと、決心したのである。・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・「ほんとに安いものね。六円いくらでみんな揃うんだから……」 自分はクルリと寝返りを打ったが、そっと口の中で苦笑を噛み潰した。 六円いくら――それはある雑誌に自分が談話をしたお礼として昨日二十円届けられた、その金だった。それが自分・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・仕方なしに一番安い文芸雑誌を買う。なにか買って帰らないと今夜が堪らないと思う。その堪らなさが妙に誇大されて感じられる。誇大だとは思っても、そう思って抜けられる気持ではなかった。先刻の古本屋へまた逆に歩いて行った。やはり買えなかった。吝嗇臭い・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・その Waste という字は書き易い字であるのか――筆のいたずらに直ぐ書く字がありますね――その字の一つなのです。私はそれを無暗にたくさん書いていました。そのうちに私の耳はそのなかから機を織るような一定のリズムを聴きはじめたのです。手の調子・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・溪間の温泉宿なので日が翳り易い。溪の風景は朝遅くまでは日影のなかに澄んでいる。やっと十時頃溪向こうの山に堰きとめられていた日光が閃々と私の窓を射はじめる。窓を開けて仰ぐと、溪の空は虻や蜂の光点が忙しく飛び交っている。白く輝いた蜘蛛の糸が弓形・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・「無闇な事も出来ますまいが、今度の設計なら決して高い予算じゃ御座いませんよ、何にしろあの建坪ですもの、八千円なら安い位なものです」「いやその安価のが私ゃ気に喰わんのだが、先ず御互の議論が通ってあの予算で行くのだから、そう安ぽい直ぐ欄・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・外米は、内地米あるいは混合米よりもいくらか値段が安いのでそこを見こんで買うのである。これを米屋の番頭から聞きこんだあるはしっこい女は、じゃ、うちにある外米を売ってあげよう、うんと安くしてあげてもかまわないから、と云いだした。 往復一里も・・・ 黒島伝治 「外米と農民」
・・・ そこで、漁業会社は、普通相場の五分の一にあたる安いルーブル紙幣を借区料としてサヴエート同盟へ納めるのだった。そして、ぬくらんと懐を肥やして、威張っていた。 密輸入者の背後には、その商品を提供する哈爾賓のブルジョアが控えているばかり・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・軽い胸の病気に伴い易い神経衰弱にもかゝっていた。そして頭の中に不快なもがもがが出来ていた。「これ二反借って来たんは、丸文字屋にも知らんのじゃけど……」 もう行ったことに思っていたお里が、また枕頭へやって来た。「あの、品の肩掛けと・・・ 黒島伝治 「窃む女」
出典:青空文庫