・・・ 安井氏の絵がやはり目立って光っている。なんだか玉かろうせきを溶かしたもので描いてあるような気持がする。例えば、白ばらの莟の頭の少し開きかかった底の方に、ほのかな紅色の浮動している工合などでも、そういう感じを与える。デリベレイトに狙・・・ 寺田寅彦 「二科会展覧会雑感」
・・・坂本繁二郎氏のセガンチニを草体で行ったような牛の絵でも今見てもちっとも見劣りがしない。安井氏のを見ると同氏帰朝後三越かどこかであった個人展の記憶が甦って来て実に愉快である。山下氏のでも梅原氏のでも、近頃のものよりどうしても両氏の昔のものの方・・・ 寺田寅彦 「二科展院展急行瞥見記」
・・・ しかしともかくも厄年が多くの人の精神的危機であり易いという事はかなりに多くの人の認めるところではあるまいか。昔の聖人は四十歳にして惑わずと云ったそうである。これが儒教道徳に養われて来たわれわれの祖先の標準となっていた。現代の人間が四十・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・盲目の衰え易い盛りの時期は過ぎ去って居るのである。其でも太十の情は依然として深かった。四 彼がお石を知ってから十九年目、太十が六十の秋である。彼はお石を待ち焦れて居た。其秋のマチにも瞽女は隊を組んで幾らも来た。其頃になってか・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・茶碗の底を見ると狩野法眼元信流の馬が勢よく跳ねている。安いに似合わず活溌な馬だと感心はしたが、馬に感心したからと云って飲みたくない茶を飲む義理もあるまいと思って茶碗は手に取らなかった。「さあ飲みたまえ」と津田君が促がす。「この馬はな・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・それで三円だと云う。安いなあ豊隆と云っている。豊隆はうん安いと云っている。自分は安いか高いか判然と判らないが、まあ安いなあと云っている。好いのになると二十円もするそうですと云う。二十円はこれで二返目である。二十円に比べて安いのは無論である。・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・舟より上る囚人のうちワイアットとあるは有名なる詩人の子にてジェーンのため兵を挙げたる人、父子同名なる故紛れ易いから記して置く。塔中四辺の風致景物を今少し精細に写す方が読者に塔その物を紹介してその地を踏ましむる思いを自然に引き起させる・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・彼の著書の中で、比較的初学者に理解し易いと言はれ、したがつて又ニイチェ哲学の入門書と言はれるアフォリズム「人間的な、あまりに人間的な」でさへも、相当に成育した一般の文化常識と、特に敏感な詩人的感覚とを所有しない読者にとつては、決して理解し易・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・セコンドメイトの猫入らずを防ぐと同時に、私の欺され易いセンチメンタリズムを怒鳴りつけた。 倉庫は、街路に沿うて、並んで甲羅を乾していた。 未だ、人通りは余り無かった。新聞や牛乳の配達や、船員の朝帰りが、時々、私たちと行き違った。・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・ただ解決が出来れば幾分か諦が付き易い効はあるが、元来「死」が可厭という理由があるんじゃ無いから――ただ可厭だから可厭なんだ――意味が解った所で、矢張り何時迄も可厭なんだ。すると智識で「死」の恐怖を去る事は出来ん。死を怖れるのも怖れぬのも共に・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
出典:青空文庫