・・・いくら物価の安いときだって熊の毛皮二枚で二円はあんまり安いと誰でも思う。実に安いしあんまり安いことは小十郎でも知っている。けれどもどうして小十郎はそんな町の荒物屋なんかへでなしにほかの人へどしどし売れないか。それはなぜか大ていの人にはわから・・・ 宮沢賢治 「なめとこ山の熊」
・・・仮令ば蛋白質をば少しく分解して割合簡単な形の消化し易いものを作る等であります。 第二に食事は一つの享楽である菜食によってその多分は奪われるとこれはやはり肉食者よりのお考であります。なるほど普通混食をしているときは野菜は肉類より美味しくな・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・婦人のためばかりではなく男のためでもある。婦人の安い労働賃金、青少年の安い労働賃金、それはいつも成年男子の賃金の安定を脅かして来た。失業の予備軍となっている。しかしそういう点で共通の幸福を守ること、その協力の意味を理解しない男の人たちは、組・・・ 宮本百合子 「明日をつくる力」
・・・文章に調子がつくと作者はよみ下し易い美文めいたリズムにのるのである。たとえば「絶望があった。断崖に面した時のような絶望が。憤激があった。押えても押えてもやり切れぬ憤激が。惨めさがあった。泣いても泣いても泣き切れぬ惨めさが。恩愛も、血縁も、人・・・ 宮本百合子 「一連の非プロレタリア的作品」
・・・ 最近、本を読んで暮すしか仕方のない生活に置かれていた時、私は偶然「安井夫人」という鴎外の書いた短い伝記を読む機会があった。ペルリが浦賀へ来た時代に大儒息軒先生として知られ、雲井龍雄、藤田東湖などと交友のあった大痘痕に片眼、小男であった・・・ 宮本百合子 「鴎外・漱石・藤村など」
・・・息子は体が弱くて、父である青鬼先生に佐分利流の稽古をつけられて度々卒倒するので、これは武術より学問へ進む方がよかろうということになって、二十歳前後には安井息軒についていたらしい。やがて洋学に志を立て、佐久間象山の弟子になって、西洋砲術の免許・・・ 宮本百合子 「繻珍のズボン」
・・・その心もちをたいへん巧みに捕えて、片山哲氏は首相になると早々街頭録音に出かけるし、新橋のきわで安井都長官が芋苗を売る手伝いをするし、大変親しみ易い政府がはじまったようです。小包米とか赤ん坊の牛乳、姙産婦用ラードの配給、これは根本的な食糧問題・・・ 宮本百合子 「本当の愛嬌ということ」
・・・「安井夫人」を読む者は鴎外が女に求めていた光りがどういう種類のものであったかをいささか知り得るのである。 荷風は、ヨーロッパにあってはその婦人観も彼地の常識に従って郷に従い、日本にあってはその婦人観も郷に従い、長いものにまかれる伝統に屈・・・ 宮本百合子 「歴史の落穂」
・・・それは不断から機嫌の変わり易い宇平が、病後に際立って精神の変調を呈して来たことである。 宇平は常はおとなしい性である。それにどこか世馴れぬぼんやりした所があるので、九郎右衛門は若殿と綽号を附けていた。しかしこの若者は柔い草葉の風に靡くよ・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・そこで私は君を、私の心安い宿屋に紹介する。宿屋では私に対する信用で、君を泊まらせて食わせて置く。その間に私は君のために位置を求める。それも、君だけの材能があって見れば、多少の心当がないでもない。若し旨く行ったら、君は自ら贏ち得た報酬で宿屋の・・・ 森鴎外 「二人の友」
出典:青空文庫