・・・その寂寞を破るものは、ニスのにおいのする戸の向うから、時々ここへ聞えて来る、かすかなタイプライタアの音だけであった。 書類が一山片づいた後、陳はふと何か思い出したように、卓上電話の受話器を耳へ当てた。「私の家へかけてくれ給え。」・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・たとい君は同じ屏風の、犬を曳いた甲比丹や、日傘をさしかけた黒ん坊の子供と、忘却の眠に沈んでいても、新たに水平へ現れた、我々の黒船の石火矢の音は、必ず古めかしい君等の夢を破る時があるに違いない。それまでは、――さようなら。パアドレ・オルガンテ・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・可哀がって遣るから、もっと此方へおいで」といった。 レリヤはこういって顔を振り上げた。犬を誉めた詞の通りに、この娘も可哀い眼付をして、美しい鼻を持って居た。それだから春の日が喜んでその顔に接吻して、娘の頬が赤くなって居るのだ。 クサ・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ もう、一度、今度は両手に両側の蘆を取って、ぶら下るようにして、橋の片端を拍子に掛けて、トンと遣る、キイと鳴る、トントン、きりりと鳴く。 紅の綱で曳く、玉の轆轤が、黄金の井の底に響く音。「ああ、橋板が、きしむんだ。削・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・みんな嫁さんに遣るんだぜ。」 とくるりと、はり板に並んで向をかえ、縁側に手を支いて、納戸の方を覗きながら、「やあ、寝てやがら、姉様、己が嫁さんは寝ねかな。」「ああ、今しがた昼寝をしたの。」「人情がないぜ、なあ、己が旨いものを・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・「大丈夫、いなかでは遣る事さ。ものなりのいいように、生れ生れ茄子のまじないだよ。」「でも、畑のまた下道には、古い穀倉があるし、狐か、狸か。」「そんな事は決してない。考えているうちに、私にはよく分った。雨続きだし、石段が辷るだの、・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ほれ、こりゃ、破ると、中が真黒けで、うじゃうじゃと蛆のような筋のある(狐の睾丸じゃがいの。」「旦那、眉毛に唾なとつけっしゃれい。」「えろう、女狐に魅まれたなあ。」「これ、この合羽占地茸はな、野郎の鼻毛が伸びたのじゃぞいな。」・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ ト竹を破るような声で、と言う。ぬいと出て脚許へ、五つ六つの猿が届いた。赤い雲を捲いたようにな、源助。」「…………」小使は口も利かず。「その時、旗を衝と上げて、と云うと、上げたその旗を横に、飜然と返して、指したと思えば、・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・一家にしても、その家に一人の不精ものがあれば、そのためにほとんど家庭の平和を破るのである。そのかわりに、一家手ぞろいで働くという時などには随分はげしき労働も見るほどに苦しいものではない。朝夕忙しく、水門が白むと共に起き、三つ星の西に傾くまで・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・「マアあの二人を山の畑へ遣るッて、親というものよッぽどお目出たいものだ」 奥底のないお増と意地曲りの嫂とは口を揃えてそう云ったに違いない。僕等二人はもとより心の底では嬉しいに相違ないけれど、この場合二人で山畑へゆくとなっては、人に顔・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
出典:青空文庫