・・・然しそれにもかかわらず、私といわず、お前たちも行く行くは母上の死を何物にも代えがたく悲しく口惜しいものに思う時が来るのだ。世の中の人が無頓着だといってそれを恥じてはならない。それは恥ずべきことじゃない。私たちはそのありがちの事柄の中からも人・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・……雨水が渺々として田を浸すので、行く行く山の陰は陰惨として暗い。……処々巌蒼く、ぽっと薄紅く草が染まる。嬉しや日が当ると思えば、角ぐむ蘆に交り、生茂る根笹を分けて、さびしく石楠花が咲くのであった。 奥の道は、いよいよ深きにつけて、空は・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・ 屋根から屋根へ、――樹の梢から、二階三階が黒烟りに漾う上へ、飜々と千鳥に飛交う、真赤な猿の数を、行く行く幾度も見た。 足許には、人も車も倒れている。 とある十字街へ懸った時、横からひょこりと出て、斜に曲り角へ切れて行く、昨夜の・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ その靴は霜のいと夜深きに、空谷を鳴らして遠く跫音を送りつつ、行く行く一番町の曲がり角のややこなたまで進みけるとき、右側のとある冠木門の下に踞まれる物体ありて、わが跫音に蠢けるを、例の眼にてきっと見たり。 八田巡査はきっと見るに、こ・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・俗に、河童横町の材木屋の主人から随分と良い条件で話があったので、お辰の頭に思いがけぬ血色が出たが、ゆくゆくは妾にしろとの肚が読めて父親はうんと言わず、日本橋三丁目の古着屋へばかに悪い条件で女中奉公させた。河童横町は昔河童が棲んでいたといわれ・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・城下の者にて幸助を引取り、ゆくゆくは商人に仕立てやらんといいいでしがありしも、可愛き妻には死別れ、さらに独子と離るるは忍びがたしとて辞しぬ。言葉すくなき彼はこのごろよりいよいよ言葉すくなくなりつ、笑うことも稀に、櫓こぐにも酒の勢いならでは歌・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・それに逸平は三島の火消しの頭をつとめていたので、ゆくゆくは次郎兵衛にこの名誉職をゆずってやろうというたくらみもあり、次郎兵衛がこれからもますます馬のように暴れまわってくれたならそれだけ将来の火消し頭としての資格もそなわって来ることだという遠・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・ どんなに貧乏だってかまわない。ゆくゆくは子供がうんとできて、自分の両親のようになってもかまわない。――「おれが、あの娘に話してみるか?」 うしろで、夫婦が相談はじめている。「それともお前がきいてみるか?」「そうね」「ど・・・ 徳永直 「白い道」
出典:青空文庫