・・・と小川は、ゆっくり言葉を切って、じろりと源作を見た。 源作は、ぴく/\唇を顫わした。何か云おうとしたが、小川にこう云われると、彼が前々から考えていた、自分の金で自分の子供を学校へやるのに、他に容喙されることはないという理由などは全く根拠・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・ 主客の間にこんな挨拶が交されたが、客は大きな茶碗の番茶をいかにもゆっくりと飲乾す、その間主人の方を見ていたが、茶碗を下へ置くと、「君は今日最初辞退をしたネ。」と軽く話し出した。「エエ。」と主人は答えた。「なぜネ。」・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ お父さんはねるときに、今戦争に使ってるだけのお金があれば、日本中のお父さんみたいな人たちをゆっくりたべさせることが出来るんだと云いました。――先生はふだんから、貧乏な可哀相な人は助けてやらなければならないし、人とけんかしてはいけないと・・・ 小林多喜二 「級長の願い」
・・・「まあ、ゆっくりさがすんだナ。」「なにも追い立てをくってるわけじゃないんだから――ここにいたって、いられないことはないんだから。」 こう次郎も兄さんらしいところを見せた。 やがて自分らの移って行く日が来るとしたら、どんな知らない・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・その道を河に沿うて、河の方へ向いて七人の男がゆっくり歩いている。男等の位置と白楊の位置とが変るので、その男等が歩いているという事がやっと知れるのである。七人とも上着の扣鈕をみな掛けて、襟を立てて、両手をずぼんの隠しに入れている。話声もしない・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・そして、馬の息を休めるために、ゆっくり歩きました。 そのうちにウイリイは、ふと、向うの方に何かきらきら光るものが落ちているのに目をとめました。それは金のような光のある、一まいの鳥の羽根でした。ウイリイは、めずらしい羽根だからひろっていこ・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・二階の西洋間で、長兄は、両手をうしろに組んで天井を見つめながら、ゆっくり歩きまわり、「いいかね、いいかね、はじめるぞ。」「はい。」「おれは、ことし三十になる。孔子は、三十にして立つ、と言ったが、おれは、立つどころでは無い。倒れそ・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・「重大な事柄を話そうとする人にふさわしいように、ゆっくり、そして一語一句をはっきり句切って話す。しかし少しも気取ったようなところはない。謙遜で、引きしまっていて、そして敏感である。ただ話が佳境に入って来ると多少の身振りを交じえる。両手を・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・後で二人ゆっくり行こうと言って断わっておいたけれど、お絹が勧めるので、やっぱり行くことにして、二階で著物を著かえて、下へ来ていた。お芳はまだ著かえなかった。 しかし劇場へ行ってみると、もう満員の札が掲って、ぞろぞろ帰る人も見受けられたに・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・一時間ばかりも足を休めて友達とゆっくり話をしようとするには、これまでの習慣で、非常に多く物を食わねばならぬ。ビイル一杯が長くて十五分間、その店のお客たる資格を作るものとすれば、一時間に対して飲めない口にもなお四杯の満を引かねばならない。然ら・・・ 永井荷風 「銀座」
出典:青空文庫