・・・ 五月七日 一寝入したかと思うと、フト眼が覚めた、眼が覚めたのではなく可怕い力が闇の底から手を伸して揺り起したのである。 その頃学校改築のことで自分はその委員長。自分の外に六名の委員が居ても多くは有名無実で、本気で世話を焼くもの・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ かくて智恵と力をはらんで身の重きを感じたツァラツストラのように、張り切った日蓮は、ついに建長五年四月二十八日、清澄山頂の旭の森で、東海の太陽がもちいの如くに揺り出るのを見たせつなに、南無妙法蓮華経と高らかに唱題して、彼の体得した真理を・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・そして母を揺り起した。母が眼をさますと、何だかと訊いたので、「ケイサツ」と云うと、母はしばらく黙っていたが、「兄が東京で入っているんだも、モウ何ンも用事ねえでないか?」と云った。妹はそれにどう返事をしていゝか分らなかった。 母はブツ/\・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・屋上から見渡すと、なるほど所々に棟瓦の揺り落されたのが指摘された。 停車場近くの神社で花崗石の石の鳥居が両方の柱とも見事に折れて、その折れ口が同じ傾斜角度を示して、同じ向きに折れていて、おまけに二つの折れ目の断面がほぼ同平面に近かった。・・・ 寺田寅彦 「静岡地震被害見学記」
・・・上さんは泣出す乳呑児を揺りながら訊いた。「一時賜金が百三十円に、年金が四十八円ずつでござえますがね。参謀本部へ、一時金を受けに行くと、そこにいた掛の方が、『大瀬晴二郎の父親の吉兵衛と云うのあお前か』と云うんです。へえ、さようでござえ・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・窓の戸のみならず家屋を揺り動すこともある。季節と共に風の向も変って、春から夏になると、鄰近処の家の戸や窓があけ放されるので、東南から吹いて来る風につれ、四方に湧起るラヂオの響は、朝早くから夜も初更に至る頃まで、わたくしの家を包囲する。これが・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・髪の毛ではない無数の蛇の舌が断間なく震動して五寸の円の輪を揺り廻るので、銀地に絹糸の様に細い炎が、見えたり隠れたり、隠れたり見えたり、渦を巻いたり、波を立てたりする。全部が一度に動いて顔の周囲を廻転するかと思うと、局部が纔かに動きやんで、す・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・肩を揺り越した一握りの髪が軽くうねりを打つ。坊さんは「知り申さぬ」と答えて「まだ真との道に入りたもう心はなきか」と問う。女屹として「まこととは吾と吾夫の信ずる道をこそ言え。御身達の道は迷いの道、誤りの道よ」と返す。坊さんは何にも言わずにいる・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・ 彼は、暫くして少年を揺り起した。少年は鈍く眼を開いた。そして両手をウーンと張り上げた。隣の人の耳を小突きながら、隣の人は小突かれると、反対の通路の方へガックリと首を傾けた。「どうしたんだい。兄さん、首っ吊りするって訳じゃねえだろう・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・口をかけてもお前は来てくれず、夜はしみじみと更ける寒さは増す、独りグイ飲みのやけ酒という気味で、もう帰ろうと思ってるとお前が丁度やって来たから狸寝入でそこにころがって居ると、オ前がいろいろにしておれを揺り起したけれどおれは強情に起きないで居・・・ 正岡子規 「墓」
出典:青空文庫