・・・ 薄きたない白が、尾を垂れ、歩くにつれて首を揺り乍ら、裏のすきだらけの枸橘の生垣の穴を出入りした姿が今も遠い思い出の奥にかすんで見える。 白、白と呼んでは居たが、深い愛情から飼われたのではなかった。父の洋行留守、夜番がわりにと母が家・・・ 宮本百合子 「犬のはじまり」
・・・ 沢山の洗濯物が部屋の天井からぶら下り、赤坊の揺り籠が隅においてある。そういうドミトリーの室では、遊びに来て喋り込んでいた女房を追いかけて、例のボルティーコフがあばれ込んで来ているところであった。「畜生! 上向けば女! 見下しゃ女!・・・ 宮本百合子 「「インガ」」
・・・ やがて、レコードのレッテルの色で、メルバの独唱だのアンビル・コーラスだのいろいろ見分けがつくようになり、しまいには夕飯のあとでなど「百合ちゃん、チクオンキやる」と立って変な鼻声で、しかも実に調子をそっくり「マイマイユーメ、テンヒンホー・・・ 宮本百合子 「きのうときょう」
・・・ドアが開くと同時に白い萎んだ顔を入ってゆく自分に向け、歩くから、椅子にかけるまで眼もはなさず追って、しかし、椅子にかけている体は崩さず、「……どうしたえ、百合ちゃん……本当にまァ……」 主任は、爪先で歩くようにして室の角にかけ、此方・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・「何だ健坊よわむしだね、百合ちゃんはこわくないよ、ホラ、何でもないじゃないか!」そういう工合。帰って、その晩はストーヴの前でいろいろ夜ふけまで二人の話せるあらゆる話題について話し、少しくたびれると、いねちゃんがタバコをのみながら詩集『月下の・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・女は、白い浴衣を着、手に団扇をもって、何とか彼とか男に云ってるところまで書いたら、不意に母親がやって来て、「百合ちゃん、お前がこれ書いたの?」 しようがない。うん、と云ったら、母親はちょっとよんでみた。「まあ、何だろう!」それっ・・・ 宮本百合子 「「処女作」より前の処女作」
・・・母が泣くこともあった。百合ちゃんはお父様とどこへでも行って暮したらいいだろうと云うようなこともある。だが、それらは今思えばどれも熾な生活力に充ちた親たちの性格があげた波の飛沫で、私はそのしぶきをずっぷりと浴びつつ、自分も、あの波この波をその・・・ 宮本百合子 「青春」
・・・ 先日、私が林町に行った時、母が突然「百合ちゃんもタイトルでもとるといいね。」と云われた。 自分は寧ろ驚き、同時にひどく不快を感じて「何故? 学者と芸術家とは異うことよ。芸術家は学者以上と云えてよ一方から見ると。学者には学ん・・・ 宮本百合子 「一九二三年冬」
・・・銀鼠色の木綿服を着た若いアクスーシャとピョートルは、流れる手風琴の音につれて、そのブランコを揺りながら、今にも目にのこる鮮やかで朗らかな愛の場面を演じた。 第二芸術座、ワフタンゴフ劇場、カーメルヌイ劇場、諷刺劇場は、舞台を飾ることそのも・・・ 宮本百合子 「ソヴェトの芝居」
・・・ そして、七匹の青蜘蛛が張りわたしている絃を掻き鳴らし始めると、二人のお爺さんは、睡蓮の花を静かに左や右に揺り、いっぱいに咲きこぼれている花々の蕋からは、一人ずつの類もなく可愛らしい花の精が舞いながら現われて来ました。 目に見えない・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
出典:青空文庫