・・・鯨の冬の凄じさは、逆巻き寄する海の牙に、涙に氷る枕を砕いて、泣く児を揺るは暴風雨ならずや。 母は腕のなゆる時、父は沖なる暗夜の船に、雨と、波と、風と、艪と、雲と、魚と渦巻く活計。 津々浦々到る処、同じ漁師の世渡りしながら、南は暖に、・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 中にも慎ましげに、可憐に、床しく、最惜らしく見えたのは、汽車の動くままに、玉の緒の揺るるよ、と思う、微な元結のゆらめきである。 耳許も清らかに、玉を伸べた頸許の綺麗さ。うらすく紅の且つ媚かしさ。 袖の香も目前に漾う、さしむかい・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ とまた云う、男は口を利くのも呼吸だわしそうに肩を揺る、……「就きましては、真に申兼ねましたが、その蝋燭でございます。」「蝋燭は分ったであす。」 小鼻に皺を寄せて、黒子に網の目の筋を刻み、「御都合じゃからお蝋は上げぬよう・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・……次第に家ごと揺るほどになりましたのに、何という寂寞だか、あの、ひっそりと障子の鳴る音。カタカタカタ、白い魔が忍んで来る、雪入道が透見する。カタカタカタカタ、さーッ、さーッ、ごうごうと吹くなかに――見る見るうちに障子の桟がパッパッと白くな・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・ 三味線背負った乞食坊主が、引掻くようにもぞもぞと肩を揺ると、一眼ひたと盲いた、眇の青ぶくれの面を向けて、こう、引傾って、熟と紫玉のその状を視ると、肩を抽いた杖の尖が、一度胸へ引込んで、前屈みに、よたりと立った。 杖を径に突立て突立・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・次へ、それから、引続いて――一品料理の天幕張の中などは、居合わせた、客交じりに、わはわはと笑を揺る。年内の御重宝九星売が、恵方の方へ突伏して、けたけたと堪らなそうに噴飯したれば、苦虫と呼ばれた歯磨屋が、うンふンと鼻で笑う。声が一所で、同音に・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・と肩先を揺る。 私は睡ったふりもしていられぬので、余儀なく返事をして顔を挙げた。そして上さんのさしだす宿帳と矢立とを取って、まずそれを記してから、「その……宿代だが、明朝じゃいかんでしょうか。」「明朝――今夜持合せがないのかね。・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・「おい。百合ちゃん。百合ちゃん。生をもう二つ」 話し手の方の青年は馴染のウエイトレスをぶっきら棒な客から救ってやるというような表情で、彼女の方を振り返った。そしてすぐ、「いや、ところがね、僕が窓を見る趣味にはあまり人に言えない欲・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・あれは遠い丸の内、それでも天気のいい時には吃驚りするほど座敷の障子を揺る事さえある、されば、すぐ崖下に狐を打殺す銃声は、如何に強く耳を貫くであろう。家中の女共も同じ事、誰れか狐に喰いつかれはしまいか。お狐様は家の中まで荒れ込んで来はしまいか・・・ 永井荷風 「狐」
・・・天道さまが、東の空へ金色の矢を射なさるじゃ、林樹は青く枝は揺るる、楽しく歌をばうたうのじゃ、仲よくおうた友だちと、枝から枝へ木から木へ、天道さまの光の中を、歌って歌って参るのじゃ、ひるごろならば、涼しい葉陰にしばしやすんで黙るのじゃ、又ちち・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
出典:青空文庫