・・・古今の英雄の詩、美人の歌、聖賢の経典、碩儒の大著、人間の貴い脳漿を迸ばらした十万巻の書冊が一片業火に亡びて焦土となったを知らず顔に、渠等はバッカスの祭りの祝酒に酔うが如くに笑い興じていた。 重役の二三人は新聞記者に包囲されていた。自分に・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・遠く隔った、都会の歓楽に酔うて叫んでいる賑かな声も聞かない。また、悲惨な犠牲者の狂い働いている騒がしい響きの混った物音も聞かない。また、二十世紀の科学的文明が世界の幾千の都会に光りと色彩の美観を添え、益々繁華ならしめんとする余沢も蒙っていな・・・ 小川未明 「夕暮の窓より」
・・・私は一合も飲まぬうちに酔うていた。「あんたはまだ坊ン坊ンだ。女が皆同じに見えちゃ良い小説が書けっこありませんよ。石コロもあれば、搗き立ての餅もあります」日頃の主人に似合わぬ冗談口だった。 その時、トンビを着て茶色のソフトを被った眼の・・・ 織田作之助 「世相」
・・・泥酔した経験はないし、酔いたいと思ったこともない。酔うほどには飲めないのだ。 してみれば、私が身を亡ぼすのは、酒や女や博奕ではなく、やはり煙草かも知れない。 父は酒を飲んだが、煙草を吸わなかった。私は酒は飲まないが、煙草を吸う。父が・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・ 新世界に二軒、千日前に一軒、道頓堀に中座の向いと、相合橋東詰にそれぞれ一軒ずつある都合五軒の出雲屋の中でまむしのうまいのは相合橋東詰の奴や、ご飯にたっぷりしみこませただしの味が「なんしょ、酒しょが良う利いとおる」のをフーフー口とがらせて・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・舟とどめて互いに何をか語りしと問えど、酔うても言葉すくなき彼はただ額に深き二条の皺寄せて笑うのみ、その笑いはどことなく悲しげなるぞうたてき。「源が歌う声冴えまさりつ。かくて若き夫婦の幸しき月日は夢よりも淡く過ぎたり。独子の幸助七歳の時、・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・自分は可い心持に酔うている。酔うてはいるもののどうも孤独の感に堪えない。要するに自分は孤独である。 人の一生は何の為だろう。自分は哲学者でも宗教家でもないから深い理窟は知らないが、自分の今、今という今感ずるところは唯だ儚さだけである。・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・「汝はなさねばならぬ、それ故なし得る」といったが、これは顛倒されねばならぬ。「汝は能う、故になさねばならぬ」である。彼の義務は過剰であるというイデー、カントの命題の顛倒の思想はニイチェに影響した。ツァラツストラは知恵と力にふくれて山から下り・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 彼は、能う限り素早く射撃をつゞけて、小屋の方へ退却した。が、犬は、彼らの退路をも遮っていた。白いボンヤリした月のかげに、始め、二三十頭に見えた犬が、改めて、周囲を見直すと、それどころか、五六十頭にもなっていた。川井と後藤とは、銃がない・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・ 今まで喜びに満されていたのに引換えて、大した出来ごとではないが善いことがあったようにも思われないからかして、主人は快く酔うていたがせっかくの酔も興も醒めてしまったように、いかにも残念らしく猪口の欠けを拾ってかれこれと継ぎ合せて見ていた・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
出典:青空文庫