・・・甚太夫はこの書面へ眼を通すと、おもむろに行燈をひき寄せて、燈心の火をそれへ移した。火はめらめらと紙を焼いて、甚太夫の苦い顔を照らした。 書面は求馬が今年の春、楓と二世の約束をした起請文の一枚であった。 三 ・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ 七 それから二三日経ったある夜、お蓮は本宅を抜けて来た牧野と、近所の寄席へ出かけて行った。 手品、剣舞、幻燈、大神楽――そう云う物ばかりかかっていた寄席は、身動きも出来ないほど大入りだった。二人はしばらく・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・「閣下は今夜も七時から、第×師団の余興掛に、寄席的な事をやらせるそうだぜ。」「寄席的? 落語でもやらせるのかね?」「何、講談だそうだ。水戸黄門諸国めぐり――」 穂積中佐は苦笑した。が、相手は無頓着に、元気のよい口調を続けて行・・・ 芥川竜之介 「将軍」
土用波という高い波が風もないのに海岸に打寄せる頃になると、海水浴に来ている都の人たちも段々別荘をしめて帰ってゆくようになります。今までは海岸の砂の上にも水の中にも、朝から晩まで、沢山の人が集って来て、砂山からでも見ていると・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ それで魚に同情を寄せるのである。 なんであの魚はまだ生を有していながら、死なねばならないのだろう。 それなのにぴんと跳ね上がって、ばたりと落ちて死ぬるのである。単純な、平穏な死である。 小娘はやはり釣っている。釣をする人の・・・ 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・(まず、可 と襖に密と身を寄せたが、うかつに出らるる数でなし、言をかけらるる分でないから、そのまま呼吸を殺して彳むと、ややあって、はらはらと衣の音信。 目前へ路がついたように、座敷をよぎる留南奇の薫、ほの床しく身に染むと、彼方も・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・色紙、短冊でも並びそうな、おさらいや場末の寄席気分とは、さすが品の違った座をすすめてくれたが、裾模様、背広連が、多くその席を占めて、切髪の後室も二人ばかり、白襟で控えて、金泥、銀地の舞扇まで開いている。 われら式、……いや、もうここで結・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
「しゃッ、しゃッ、しゃあっ!……」 寄席のいらっしゃいのように聞こえるが、これは、いざいざ、いでや、というほどの勢いの掛声と思えば可い。「しゃあっ! 八貫―ウん、八貫、八貫、八貫と十ウ、九貫か、九貫と十ウだ、……十貫・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ 近頃はただ活動写真で、小屋でも寄席でも一向入りのない処から、座敷を勤めさして頂く。「ちょいと嬰児さんにおなり遊ばせ。」 思懸けない、その御礼までに、一つ手前芸を御覧に入れる。「お笑い遊ばしちゃ、厭ですよ。」と云う。「こ・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・ここへあたりの黍殻を寄せて二人が陣どる。弁当包みを枝へ釣る。天気のよいのに山路を急いだから、汗ばんで熱い。着物を一枚ずつ脱ぐ。風を懐へ入れ足を展して休む。青ぎった空に翠の松林、百舌もどこかで鳴いている。声の響くほど山は静かなのだ。天と地との・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
出典:青空文庫