・・・全体この話はどうなるだろうと、いろいろな考えやら、空想やらが僕のあたまに押し寄せて来て、ただわくわくするばかりで、心が落ちつかなかった。 窓の机に向って、ゆうがた、独り物案じに沈み、見るともなしにそとをながめていると、しばらく忘れていた・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・であって、驚くべき奇才であるとは認めていたが、正直正太夫という名からして寄席芸人じみていて何という理由もなしに当時売出しの落語家の今輔と花山文を一緒にしたような男だろうと想像していた。尤もこういう風采の男だとは多少噂を聞いていたが、会わない・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ドチラかというと寡言の方で、眼と唇辺に冷やかな微笑を寄せつつ黙して人の饒舌を聞き、時々低い沈着いた透徹るような声でプツリと止めを刺すような警句を吐いてはニヤリと笑った。 緑雨の随筆、例えば『おぼえ帳』というようなものを見ると、警句の連発・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・その時分はマダ今ほど夫婦連れ立って歩く習慣が流行らなかったが、沼南はこの艶色滴たる夫人を出来るだけ極彩色させて、近所の寄席へ連れてったり縁日を冷かしたりした。孔雀のような夫人のこの盛粧はドコへ行っても目に着くので沼南の顔も自然に知られ、沼南・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ その頃の書生は今の青年がオペラやキネマへ入浸ると同様に盛んに寄席へ通ったもので、寄席芸人の物真似は書生の課外レスンの一つであった。二葉亭もまた無二の寄席党で、語学校の寄宿舎にいた頃は神保町の川竹の常連であった。新内の若辰が大の贔負で、・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・けれども、私はトーマス・カーライルの書いた四十冊ばかりの本をみな寄せてみてカーライル彼自身の生涯に較べたときには、カーライルの書いたものは実に価値の少いものであると思います。先日カーライルの伝を読んで感じました。ご承知の通りカーライルが書い・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・私がまだ子供の時分、親たちにつれられて通ったことのある地方は、山があり、森があり、湖があり、そして、海の荒波が、白く岸に寄せているばかりで、さびしい景色ではあったが、人間や猟犬の影などを見なかったのだ。あの記憶に残っているところを、もう一度・・・ 小川未明 「がん」
・・・ で、私はまた上り口へ行って、そこに畳み寄せてあった薄い筵のような襤褸布団を持ってきて、それでも敷と被と二枚延べて、そして帯も解かずにそのまま横になった。枕は脂染みた木枕で、気味も悪く頭も痛い。私は持合せの手拭を巻いて支った。布団は垢で・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・「ええ、お上さんのことはそんなによく知りませんが、でも寄席へなぞ金さんと一緒に来てなすって、あれがお光さんという清元の上手な娘だって、友達から聞いたことはありますんで……金さんも何でしょう、昔馴染みてえので、今でもお上さんが他人のように・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・そして、ああこれで清々したという顔でおきみ婆さんが寄席へ行ってしまうと、間もなく父も寄席の時間が来ていなくなり、私はふと心細い気がしたが、晩になると、浜子は新次と私を二つ井戸や道頓堀へ連れて行ってくれて、生れてはじめて夜店を見せてもらいまし・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫