・・・ 坂を降りて北へ折れると、市場で、日覆を屋根の下にたぐり寄せた生臭い匂いのする軒先で、もう店をしもうたらしい若者が、猿股一つの裸に鈍い軒灯の光をあびながら将棋をしていましたが、浜子を見ると、どこ行きでンねンと声を掛けました。すると、浜子・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・の隣に寄席の「花月」がある。僕らが子供の頃、黒い顔の初代春団治が盛んにややこしい話をして船場のいとはんたちを笑わせ困らせていた「花月」は、今は同じ黒い顔のエンタツで年中客止めだ。さて、花月もハネて、帰りにどこぞでと考えると、「正弁丹吾亭」が・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・ おれもお前に貰って、見たが、版がわるい上に、紙も子供の手習いにも使えぬ粗末なもので、むろん黒の一色刷り、浪花節の寄席の広告でも、もう少し気の利いたのを使うと思われるような代物だった。余程熱心に読まねば判読しがたい、という点も勘定に入れ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・横井は斯う云って、つくばったまゝ腰へ手を廻して剣の柄を引寄せて見せ、「見給え、巡査のとは違うじゃないか。帽子の徽章にしたって僕等のは金モールになってるからね……ハヽ、この剣を見よ! と云いたい処さ」横井は斯う云って、再び得意そうに広い肩・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・と言って団扇を二三本寄せて持って来た。砂糖屋などが配って行った団扇である。 姉が種々と衣服を着こなしているのを見ながら、彼は信子がどんな心持で、またどんなふうで着付けをしているだろうなど、奥の間の気配に心をやったりした。 やがて仕度・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・』『そうね』とお絹もしいては勧めかね道々二人は肩をすり寄せ小声に節を合わして歌いながら帰りぬ。 * * * * 若い者のにわかに消えてなくなる、このごろは・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・「国主の御用ひなき法師なれば、あやまちたりとも科あらじとや思ひけん、念仏者並びに檀那等、又さるべき人々も同意したりとぞ聞えし、夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて、殺害せんとせしかども、いかんがしたりけん、其夜の害も免れぬ。」 このさ・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ と、向うの麦畑に近い方でも誰れかが棒を振って、寄せて来る豚を追いかえしていた。「叱ッ、これゃ! 麦を荒らしちゃいかんが!」 それは、自分の畑を守っている宇一だった。「叱ッ、これゃ、あっちへ行けい!」 どれもこれも自分の・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・南方外国や支那から、おもしろい器物を取寄せたり、また古渡の物、在来の物をも珍重したりして、おもしろい、味のあるものを大に尊んだ。骨董は非常の勢をもって世に尊重され出した。勿論おもしろくないものや、味のないものや、平凡のものを持囃したのではな・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・と法廷に揚言せる二十六歳の処女シャロット・ゴルデーは、処刑に臨みて書を其父に寄せ、明日(に此意を叫んで居る、曰く「死刑台は恥辱にあらず、、恥辱なるは罪悪のみ」と。 死刑が極悪・重罪の人を目的としたのは固よりである、従って古来多くの恥ずべ・・・ 幸徳秋水 「死生」
出典:青空文庫