・・・その頃まで寄席に出る怪談師が、明りを消してから、客の間を持ち廻って見せることになっていた、出来合の幽霊である。百物語のアヴァン・グウはこんな物かと、稍馬鹿にせられたような気がして、僕は引き返した。 玄関に上がる時に見ると、上がってすぐ突・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・女の子が母親の差し出す箸の先へ口を寄せていくと、灸の口も障子の破れ目の下で大きく開いた。 灸はふとまだ自分が御飯を食べていないことに気がついた。彼は直ぐ下へ降りていった。しかし、彼の御飯はまだであった。灸は裏の縁側へ出て落ちる雨垂れの滴・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・宮廷には父王とその千人の妃があり、それに対して新王は、恋愛のことにははなはだ理想主義的であって、理想の女のほかには妃嬪を寄せつけない。ついに新王は、さまざまの冒険の後に、理想の王女を遠い異国から連れてくる。この美しい妃が女主人公なのである。・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・勉強を強うる教師は学生の自負と悦楽を奪略するものである。寄席にあるべき時間に字書をさし付けらるるは「自己」を侮辱されたと認めてよい。かくして朝寝に耽り学校を牢獄と見る。「自己」を救うために学校を飛び出す。友は騒ぎ母は泣く。保証人はまっかにな・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫