・・・ 何でも明治三十年代に萩野半之丞と言う大工が一人、この町の山寄りに住んでいました。萩野半之丞と言う名前だけ聞けば、いかなる優男かと思うかも知れません。しかし身の丈六尺五寸、体重三十七貫と言うのですから、太刀山にも負けない大男だったのです・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・ わたしは思わず駈け寄りながら、嬉しまぎれにこう叫びました。「おお、有王か!」 俊寛様は驚いたように、わたしの顔を御覧になりました。が、もうわたしはその時には、御主人の膝を抱いたまま、嬉し泣きに泣いていたのです。「よく来たな・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・ 色のまっ黒な、眼の大きい、柔な口髭のあるミスラ君は、テエブルの上にある石油ランプの心を撚りながら、元気よく私に挨拶しました。「いや、あなたの魔術さえ拝見出来れば、雨くらいは何ともありません。」 私は椅子に腰かけてから、うす暗い・・・ 芥川竜之介 「魔術」
・・・彼は五年近く父の心に背いて家には寄りつかなかったから、今までの成り行きがどうなっているか皆目見当がつかなかったのだ。この場になって、その間の父の苦心というものを考えてみないではなかった。父がこうして北海道の山の中に大きな農場を持とうと思い立・・・ 有島武郎 「親子」
・・・といって二人を驚かして上げようと思って、いきなり大きな声を出して二人の方に走り寄りました。ところがどうしたことでしょう。僕の体は学校の鉄の扉を何の苦もなく通りぬけたように、おとうさんとおかあさんとを空気のように通りぬけてしまいました。僕は驚・・・ 有島武郎 「僕の帽子のお話」
・・・「内へお寄り。……さあ、一緒に。」 優しく背を押したのだけれども、小僧には襟首を抓んで引立てられる気がして、手足をすくめて、宙を歩行いた。「肥っていても、湯ざめがするよ。――もう春だがなあ、夜はまだ寒い。」 と、納戸で被布を・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・土橋寄りだ、と思うが、あの華やかな銀座の裏を返して、黒幕を落したように、バッタリ寂しい。……大きな建物ばかり、四方に聳立した中にこの仄白いのが、四角に暗夜を抽いた、どの窓にも光は見えず、靄の曇りで陰々としている。――場所に間違いはなかろう―・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ Yはその後も度々故郷へ行ったり上京したりしたが、傷持つ足の自ずと閾が高くなって、いつも手紙をよこすだけでそれぎり私の家へは寄り附かなくなった。が、手紙で知らして来た容子に由ると、その後も続いて沼南の世話になっていたらしく、中国辺の新聞・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 人々は寄り集まって、牛女の葬式を出して、墓地にうずめてやりました。そして、後に残った子供を、みんながめんどうを見て育ててやることになりました。 子供は、ここの家から、かしこの家へというふうに移り変わって、だんだん月日とともに大きく・・・ 小川未明 「牛女」
・・・いるうちに、自分の青年時代が去り、いつしか、その頭髪が白くなって、腰の曲った時が至る如く、また、靴匠が仕事場に坐って、他人の靴を修繕したり、足の大きさなどを計っているうちに、いつしか、自分の指頭に皺が寄り、眼が霞んでくるように、私の青春も去・・・ 小川未明 「机前に空しく過ぐ」
出典:青空文庫