・・・喜三郎は気を揉んで、甚太夫の側へ寄ると、「一そ恩地の屋敷の外へ参って居りましょうか。」と囁いた。が、甚太夫は頭を振って、許す気色も見せなかった。 やがて寺の門の空には、這い塞った雲の間に、疎な星影がちらつき出した。けれども甚太夫は塀に身・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・その上露柴の話によると、客は人格も悪いらしかった。が、それにも関らず妙に陽気にはなれなかった。保吉の書斎の机の上には、読みかけたロシュフウコオの語録がある。――保吉は月明りを履みながら、いつかそんな事を考えていた。・・・ 芥川竜之介 「魚河岸」
・・・遅筆なるは推敲の屡なるに依るなり。 六、おのれの作品の評価に謙遜なる事。大抵の作品は「ありゃ駄目だよ」と云う。 七、月評に忠実なる事。 八、半可な通人ぶりや利いた風の贅沢をせざる事。 九、容貌風采共卑しからざる事。 十、・・・ 芥川竜之介 「彼の長所十八」
・・・が、あの特色のある眼もとや口もとは、側へ寄るまでもなくよく見えた。そうしてそれはどうしても、子供の時から見慣れている西郷隆盛の顔であった。……「どうですね。これでもまだ、君は城山戦死説を主張しますか。」 老紳士は赤くなった顔に、晴々・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・僕たちの中では、砂岡君がうまく撚る。僕は「へえ、器用だね」と、感心して見ていた。もちろん僕には撚れない。 事務室の中には、いろんな品物がうずたかく積んであった。前の晩、これを買う時に小野君が、口をきわめて、その効用を保証した亀の子だわし・・・ 芥川竜之介 「水の三日」
・・・と朱書きした大きな状袋から取り出して、「この契約書によると、成墾引継ぎのうえは全地積の三分の一をお礼としてあなたのほうに差し上げることになってるのですが……それがここに認めてある百二十七町四段歩なにがし……これだけの坪敷になるのだが、そ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・あすこの嚊は子種をよそから貰ってでもいるんだろうと農場の若い者などが寄ると戯談を言い合った。女房と言うのは体のがっしりした酒喰いの女だった。大人数なために稼いでも稼いでも貧乏しているので、だらしのない汚い風はしていたが、その顔付きは割合に整・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・上品で端麗な若い青年の肉体が近寄るに従って、クララは甘い苦痛を胸に感じた。青年が近寄るなと思うとクララはもう上気して軽い瞑眩に襲われた。胸の皮膚は擽られ、肉はしまり、血は心臓から早く強く押出された。胸から下の肢体は感触を失ったかと思うほどこ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・自分が放慢なためにそんなことを考えて見たこともないのに依るかも知れないが、一つは十二年も北海道で過しながら、碌々旅行もせず、そこの生活とも深い交渉を持たないで暮して来たのが原因であるかも知れないと思う。 然し兎に角あの土地は矢張り私に忘・・・ 有島武郎 「北海道に就いての印象」
・・・何とは知らず周囲の草の中で、がさがさ音がして犬の沾れて居る口の端に這い寄るものがある。木の上では睡った鳥の重りで枯枝の落ちる音がする。近い街道では車が軋る。中には重荷を積んだ車のやや劇しい響をさせるのもある。犬の身の辺には新らしいチャンの匂・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
出典:青空文庫