・・・まあ、事によるとあなたの方では、もうすっかり忘れてしまっていらっしゃるような昔のお話でございますの。男。妙ですね。あなたがそんな風な事をわたくしにおっしゃるのが、もうこれで二度目ですぜ。なんだか六十ぐらいになった爺いさん婆あさんのようじ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「辻馬車」
・・・看経も時によるわ、この分きがたい最中に、何事ぞ、心のどけく。そもこの身の夫のみのお身の上ではなくて現在母上の夫さえもおなじさまでおじゃるのに……さてもさても。武士の妻はかほどのうてはと仰せられてもこの身にはいかでかいかでか。新田の君は足利に・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ よく作家が寄ると、最後には、子供を不良少年にし、餓えさせてしまっても、まだ純創作をつづけなければならぬかどうかという問題へ落ちていく。ここへ来ると、皆だれでも黙ってしまって問題をそらしてしまうのが習慣であるが、この黙るところに、もっと・・・ 横光利一 「作家の生活」
・・・くれんといっぺんに起き返りよるな。ありゃ! 何んじゃ、お前安次やして!」「さっき来たんやが、お前いやせんだ。」 安次は怒った肩を撫でながら縁に腰を下ろした。「どうしてるのや?」「どうって見た通りのざまや。」「そうか。安次・・・ 横光利一 「南北」
・・・彼らの話に拠ると、二人の家は村の南北に建っていて、二人の母は姉妹で、勘次の母は姉であるにも拘らず、秋三の家から勘次の父の家へ嫁いだものであった。けれども此の南北二家は親戚関係の成り立った当夜から、既に絶縁同様になっていた。と云うのは、秋三の・・・ 横光利一 「南北」
・・・ 丁度浮木が波に弄ばれて漂い寄るように、あの男はいつかこの僻遠の境に来て、漁師をしたか、農夫をしたか知らぬが、ある事に出会って、それから沈思する、冥想する、思想の上で何物をか求めて、一人でいると云うことを覚えたものと見える。その苦痛が、・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・当時のカピタンたちの語るところによると、初めてギネア湾にはいってワイダあたりで上陸した時には、彼らは全く驚かされた。注意深く設計された街道が、幾マイルも幾マイルも切れ目なく街路樹に包まれている。一日じゅう歩いて行っても、立派な畑に覆われた土・・・ 和辻哲郎 「アフリカの文化」
出典:青空文庫