・・・と云う言葉がかすかに洩れるのを聞いた。殊にある夜は喜三郎が、例のごとく薬を勧めると、甚太夫はじっと彼を見て、「喜三郎。」と弱い声を出した。それからまたしばらくして、「おれは命が惜しいわ。」と云った。喜三郎は畳へ手をついたまま、顔を擡げる事さ・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・が、差当り僕の見た小杉未醒氏は、気の弱い、思いやりに富んだ、時には毛嫌いも強そうな、我々と存外縁の近い感情家肌の人物である。 だから僕に云わせると、氏の人物と氏の画とは、天岡の翁の考えるように、ちぐはぐな所がある訳ではない。氏の画はやは・・・ 芥川竜之介 「小杉未醒氏」
・・・そして彼は自分の弱い性格を心の中でもどかしく思っていた。「いえ手前でございますならまだいただきたくはございませんから……全くこのお話は十分に御了解を願うことにしないとなんでございますから……しかし御用意ができましたのなら……」「いや・・・ 有島武郎 「親子」
・・・冬の間稼ぎに出れば、その留守に気の弱い妻が小屋から追立てを喰うのは知れ切っていた。といって小屋に居残れば居食いをしている外はないのだ。来年の種子さえ工面のしようのないのは今から知れ切っていた。 焚火にあたって、きかなくなった馬の前脚をじ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・小樽人とともに朝から晩まで突貫し、小樽人とともに根限りの活動をすることは、足の弱い予にとうていできぬことである。予はただこの自由と活動の小樽に来て、目に強烈な活動の海の色を見、耳に壮快なる活動の進行曲を聞いて、心のままに筆を動かせば満足なの・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・ ついに、あの生活の根調のあからさまに露出した北方植民地の人情は、はなはだしく私の弱い心を傷づけた。 四百トン足らずの襤褸船に乗って、私は釧路の港を出た。そうして東京に帰ってきた。 帰ってきた私は以前の私でなかったごとく、東京も・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・ ただ、ちっとも早く無事に帰してしまおうと、灯をつける間ももどかしく、良人の膳を、と思うにつけて、自分の気の弱いのが口惜かったけれども、目を瞑って、やがて嬰児を襟に包んだ胸を膨らかに、膳を据えた。「あの、なりたけ、早くなさいましよ、・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 雨は海上はるかに去って、霧のような煙のような水蒸気が弱い日の光に、ぼっと白波をかすませてるのがおもしろい。白波は永久に白波であれど、人世は永久に悲しいことが多い。 予はお光さんと接近していることにすこぶる不安を感じその翌々日の朝こ・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・と、奥へ注意してから、「女房は弱いし、餓鬼は毎日泣きおる、これも困るさかいなア。」「それはお互いのことだア。ね」と、僕が答えるとたん、から紙が開いて、細君が熱そうなお燗を持って出て来たが、大津生れの愛嬌者だけに、「えろうお気の毒さま・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・めにこれだけの金を溜めたというのも結構、今年は後世のためにこれだけの事業をなしたというのも結構、また私の思想を雑誌の一論文に書いて遺したというのも結構、しかしそれよりもいっそう良いのは後世のために私は弱いものを助けてやった、後世のために私は・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
出典:青空文庫