・・・ 土間はたちまち春になり、花の蕾の一輪を、朧夜にすかすごとく、お町の唇をビイルで撓めて、飲むほどに、蓮池のむかしを訪う身には本懐とも言えるであろう。根を掘上げたばかりと思う、見事な蓮根が柵の内外、浄土の逆茂木。勿体ないが、五百羅漢の御腕・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・「いかん、だめだもう、僕も殺したいほどの老爺だが、職務だ! 断念ろ」 と突きやる手に喰い附くばかり、「いけませんよう、いけませんよう。あれ、だれぞ来てくださいな。助けて、助けて」と呼び立つれど、土塀石垣寂として、前後十町に行人絶・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・舟子は、縞もめんのカルサンをはいて、大黒ずきんをかぶったかわいい老爺である。 ちょっとずきんをはずし、にこにこ笑って予におじぎをした。四方の山々にとっぷりと霧がかかって、うさぎの毛のさきを動かすほどな風もない。重みのあるような、ねばりの・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・そしてどうもしようがないので小吟のみつかるまではとその親達を牢屋に入れてつらい目に合わせて居た。けれ共どうしても目つからないと云うので霜月の十八日に殺されるときまったのでその親達をあずかった役人が可哀そうに思って「ほんとうに御気の毒な、子供・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・ びっくりして振り向くと六十ばかりの老爺が腰を屈めて僕の肩越しにのぞき込んでいるんだ。僕はあまりのことに、何だびっくりしたじゃアないかと怒鳴ってやッた。渠一向平気で、背負っていた枯れ木の大束をそこへ卸して、旦那は絵の先生かときくから先生・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・理髪所の裏が百姓家で、牛のうなる声が往来まで聞こえる、酒屋の隣家が納豆売の老爺の住家で、毎朝早く納豆納豆と嗄声で呼んで都のほうへ向かって出かける。夏の短夜が間もなく明けると、もう荷車が通りはじめる。ごろごろがたがた絶え間がない。九時十時とな・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・造りが、頑丈に、──丁度牢屋のように頑丈に出来ている。そこには、鉄の寝台が並んでいた。 これがお前の寝台だ。とある寝台の前につれて来た二年兵が云った。見ると、手箱にも、棚にも、寝台札にも、私の名前がはっきり書きこまれてあった。 二年・・・ 黒島伝治 「入営前後」
・・・ 彼は牢屋の後にある、大きな岩の中を、人に分らないように、そっと下から掘り開けて、その中へ秘密の部屋をこしらえました。そしてそこへ、牢屋から罪人の話し声がつたわって来るような仕かけをさせて、いつもそこへ這入ってじいっと罪人たちの言ってる・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・珠数を二銭に売り払った老爺もありました。わけてもひどいのは、半分ほどきかけの、女の汚れた袷をそのまま丸めて懐へつっこんで来た頭の禿げた上品な顔の御隠居でした。殆んど破れかぶれに其の布を、拡げて、さあ、なんぼだ、なんぼだと自嘲の笑を浮べながら・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・十字架に張りつけられたら、十字架のまま歩く。牢屋にいれられても、牢屋を破らず、牢屋のまま歩く。笑ってはいけない。私たち、これより他に生きるみちがなくなっている。いまは、そんなに笑っていても、いつの日にか君は、思い当る。あとは、敗北の奴隷か、・・・ 太宰治 「一日の労苦」
出典:青空文庫