・・・吉田って聞きゃじき分るわ」「吉田? 何だい、その吉田てえのは?」「私の亭主の苗字さ」と言って、女は無理に笑顔を作る。「え」と男は思わず目を見張って顔を見つめたが、苦笑いをして、「笑談だろう?」「あら、本当だよ。去年の秋嫁いて・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・しかし、やっと私だということが判ると、やはりなつかしそうに上げてくれました。ところが、私が大阪から歩いてわざわざ会いに来た話をすると、文子はきゅうに私が気味わるくなったらしく、その晩泊めることすら迷惑な風でした。私はそんな女心に愛想がつきて・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・「ばか言え、お前なぞに何が解る……」彼は平気を装ってこう言っているが、やはり心の中は咎められた。…… 下の谷間に朝霧が漂うて、アカシアがまだ対の葉を俯せて睡っている、――そうした朝早く、不眠に悩まされた彼は、早起きの子供らを伴れて、・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ 独で画を書いているといえば至極温順しく聞えるが、そのくせ自分ほど腕白者は同級生の中にないばかりか、校長が持て余して数々退校を以て嚇したのでも全校第一ということが分る。 全校第一腕白でも数学でも。しかるに天性好きな画では全校第一の名・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・それが鎌倉時代の道も開けぬ時代に、鎌倉から身延を志して隠れるということがすでに尋常一様な人には出来るものでないことは一度身延詣でしてみれば直ちに解るのである。 ことには冬季の寒冷は恐るべきものがあったに相違ない。 雪が一丈も、二丈も・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 彼は弁解がましいことを云うのがいやだった。分る時が来れば分るんだと思いながら、黙っていた。しかし、辛棒するのは、我慢がならなかった。憲兵が三等症にかゝって、病院へ内所で治療を受けに来ることは、珍らしくなかった。そんな時、彼等は、頭を下・・・ 黒島伝治 「穴」
ガラーリ 格子の開く音がした。茶の間に居た細君は、誰かしらんと思ったらしく、つと立上って物の隙からちょっと窺ったが、それがいつも今頃帰るはずの夫だったと解ると、すぐとそのままに出て、「お帰りなさいまし。」と、ぞ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・如何に其漢文に老けたる歟が分るではない乎。而して其著「理学鈎玄」は先生が哲学上の用語に就て非常の苦心を費したもので「革命前仏蘭西二世紀事」は其記事文の尤も精采あるものである。而して先生は殊に記事文を重んじた。先生曰く、事を紀して読者をして見・・・ 幸徳秋水 「文士としての兆民先生」
・・・ それから笑いながら、「こんな非道い目に会うということが分ったら、お母さんはあいつらにお茶一杯のませてやるなんて間違いだということが分かるでしょう!」――それは笑いながらいったのですが、然しこんなに私の胸にピンと来たことがありませんでし・・・ 小林多喜二 「疵」
・・・「お父さま――お前さまの心持は、この俺にはよく解るぞなし。俺もお前さまの娘だ。お前さまに幼少な時分から教えられたことを忘れないばかりに――俺もこんなところへ来た」 おげんはそこに父でも居るようにして、独りでかき口説いた。狂死した父を・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
出典:青空文庫