・・・四肢が没してもまだ足りない程、深い雪の中を、狼は素早く馳せて来た。 狼は山で食うべきものが得られなかった。そこで、すきに乗じて、村落を襲い、鶏や仔犬や、豚をさらって行くのであった。彼等は群をなして、わめきながら、行くさきにあるものは何で・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・、椀の中のどじょうの五分切りもかたはら痛きに、とうふのかたさは芋よりとはあまりになさけなかりければ、塩辛き浮世のさまか七の戸の ほそきどじょうの五分切りの汁 十四日、朝早く立て行く間なく雨しとしとふりいでぬ。・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・て降る驟雨酌する女がオヤ失礼と軽く出るに俊雄はただもじもじと箸も取らずお銚子の代り目と出て行く後影を見澄まし洗濯はこの間と怪しげなる薄鼠色の栗のきんとんを一ツ頬張ったるが関の山、梯子段を登り来る足音の早いに驚いてあわてて嚥み下し物平を得ざれ・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ 私が早く自分の配偶者を失い、六歳を頭に四人の幼いものをひかえるようになった時から、すでにこんな生活は始まったのである。私はいろいろな人の手に子供らを託してみ、いろいろな場所にも置いてみたが、結局父としての自分が進んでめんどうをみるより・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・己の家の饅頭がなぜこんなに名高いのだと思う、などとちゃらかすので、そんならお前さんはもう早くから人の悪口も聞いていたのかと問えば、うん、と言ってすましている。女房はわっと泣きだして、それを今日まで平気でいたお前が恨めしい。畢竟わしをばかにし・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・なんだか、子供だましみたいな論法で、少し結論が早過ぎ、押しつけがましくなったようだ。 けれども、も少し我慢して彼のお話に耳を傾けてみよう。ジイドの芸術評論は、いいのだよ。やはり世界有数であると私は思っている。小説は、少し下手だね。意あま・・・ 太宰治 「鬱屈禍」
・・・足のコンパスは思い切って広く、トットと小きざみに歩くその早さ! 演習に朝出る兵隊さんもこれにはいつも三舎を避けた。 たいてい洋服で、それもスコッチの毛の摩れてなくなった鳶色の古背広、上にはおったインバネスも羊羹色に黄ばんで、右の手には犬・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・通例そのような傾向は、かなりに早くから現われるものである。それだから自分の案では、中等学校の三年頃からそれぞれの方面に分派させるがいいと思う。その前に教える事は極めて基礎的なところだけを、偏しない骨の折れない程度に止めた方がいい。それでもし・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・「お早よう」道太は声かけた。「お早よう。眠られたかどうやったやら」「よく寝た」そう言って道太が高い流しの前へ行くと、彼女は棚から銅の金盥を取りおろして、ぎいぎい水をあげはじめた。そして楊枝や粉をそこへ出してくれた。道太は楊枝をつ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・その夜を限りその姿形が、生残った人たちの目から消え去ったまま、一年あまりの月日が過ぎても、二度と現れて来ないとなれば、その人たちの最早やこの世にいないことだけは確だと思わなければなるまい。 その頃、幾年となく、黒衣の帯に金槌をさし、オペ・・・ 永井荷風 「草紅葉」
出典:青空文庫