・・・細いアンテナの線を通して伝わって来る都会の声も、その音楽も、当分は耳にすることのできないかのように。 その晩は、お徳もなごりを惜しむというふうで、台所を片づけてから子供らの相手になった。お徳はにぎやかなことの好きな女で、戯れに子供らから・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 観測器械を入れたテントのそばには無線電信受信用のアンテナが張ってある。毎日午前十一時とかに東京天文台から放送される時報を受け取ってクロノメーターの時差を験するためである。 このテントから少し北に離れて住居用の長方形テントが張ってあ・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
・・・元の機械は相当感度がよかったために、アンテナはわずかに二メートルくらいの線を鴨居の電話線に並行させただけで、地中線も何もなしに十分であったのが、捲線が次第に黴びたり、各部の絶縁が一体に悪くなったりしたために感度が低下し、その上にラジオ商が外・・・ 寺田寅彦 「ラジオ雑感」
・・・ こんな行きがかりで自然ラディオというものに対する一種の恐れをいだくようになってみると、あの家々の屋上に引き散らしたアンテナに対しても同情しにくい心持ちになる。しかしそういう偏見なしにでもおそらくあれはあまり美しいものではない。物干しざ・・・ 寺田寅彦 「路傍の草」
・・・つまり、畑や電柱、アンテナなどに文明の波が柔く脈打っているため、威圧的でない程度に自然が浮き上り、一種の田園美をなしている。いつか、長崎村附近を散歩し、この辺とは全然違う印象を受けた。あの辺の村落は恐ろしい勢で解体しつつある。畑などどしどし・・・ 宮本百合子 「是は現実的な感想」
・・・その屋根でラジオのアンテナが濡れながら光っている。空地の濡れた細い樹の幹も光っている。あっちを見ると真黒い空の下で大きな白文字が、КОМУНАР《コムナール》 外套の襟を立てて労働者がやってきた。日本女は自分の立ってるところ・・・ 宮本百合子 「三月八日は女の日だ」
厳寒で、全市は真白だ。屋根。屋根。その上のアンテナ。すべて凍って白い。大気は、かっちり燦いて市街をとりかこんだ。モスクワ第一大学の建物は黄色だ。 我々は、古本屋の半地下室から出た。『戦争と平和』の絵入本二冊十五ルーブリ・・・ 宮本百合子 「シナーニ書店のベンチ」
・・・高い建物、広告塔、アンテナ、其等の錯綜した線に切断され、三角の空、ゆがんだ六角の空、悲しい布の切端のような空がある。 屋根と屋根との狭いすき間からマリが落ちたような月の見える細長い夜の空、郊外の空にない美があるのを感じる。〔一九二六・・・ 宮本百合子 「空の美」
・・・門扉が開き、まして近頃はアンテナさえ張ってあるのが見えるから、確に人はいるのだ。それにも拘らず、私が通る時出会うのは人ではない。犬だ。いつも、犬だ。白い頭の上から墨汁の瓶をぶっかけられたように、黒斑のある白犬だ。 斑犬を、私は一概に嫌い・・・ 宮本百合子 「吠える」
出典:青空文庫