・・・尤も薄いインバネスに中折帽をかぶった男は新時代と呼ぶには当らなかった。しかし女の断髪は勿論、パラソルや踵の低い靴さえ確に新時代に出来上っていた。「幸福らしいね。」「君なんぞは羨しい仲間だろう。」 O君はK君をからかったりした。・・・ 芥川竜之介 「蜃気楼」
・・・ たいてい洋服で、それもスコッチの毛の摩れてなくなった鳶色の古背広、上にはおったインバネスも羊羹色に黄ばんで、右の手には犬の頭のすぐ取れる安ステッキをつき、柄にない海老茶色の風呂敷包みをかかえながら、左の手はポッケットに入れている。・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・私は次の日出かけることになっていてステーションまで皆を送りに行ったら、丁度前の日保釈で出たばかりの小林多喜二が、インバネスも着ず大島絣の着物の肩をピンと張って、やっぱり見送りに来ていた。待合室の床の上にカタカタと高く下駄の音をたてて歩きなが・・・ 宮本百合子 「窪川稲子のこと」
・・・ うすい地のインバネスを被って口元に絶えず堅い影をただよわせて居る人だった。 その伯父と云う人は千世子に通り一ぺんの口を利くとそのまんま赤帽の方へ行った。 ただ見かけただけだったにしろ、ろくに笑いもしない様な伯父と京都まで差し向・・・ 宮本百合子 「千世子(二)」
・・・その上、はたできいている子供たちには諒解されないもっといやなことがあって、龍ちゃんがインバネスをきたまま火鉢にまたがるようにして、母に「いくら俺がやくざだってよくもあんな外道の巣へ追いこみやがった」とおこって云っていたことがあった。世話をし・・・ 宮本百合子 「道灌山」
・・・ひどく古風な短いインバネスをはおり、茶色の帽子をかぶった百姓らしい頬骨の四十男が居睡りをしている。すっかり隣りの坐席の男に肩をもたせこむような恰好をして睡り込んでいる。真白い毛糸の首巻から、陽やけのした、今は上気せている顔が強い対照をなして・・・ 宮本百合子 「東京へ近づく一時間」
出典:青空文庫