・・・…… 八 ナポリとポンペイ五月二日 朝甲板へ出て見ると、もうカプリの島が見える。朝日が巌壁に照りはえて美しい。やがてヴェスヴィオも見えて来た。遠い異郷から帰って来たイタリア人らは、いそいそと甲板を歩き回って行・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・がもう数年前書かれているのに、マクシム・ゴーリキイが一九〇八年から三四年の間にはいろいろ動揺して、召還主義の連中とカプリの労働学校を創立したり、創神派の弁護者としてレーニンに彼らとの妥協を求めたりしたことは、我々の注目をひきつける。この時代・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの発展の特質」
・・・アメリカからの帰途イタリーのカプリ島により当分そこで静養することにし、一九一三年ロマノフ王家三百年記念の大赦によってロシアにかえるまで八年間カプリに止った。 ところで、非常に一般化されている「どん底」に一言ふれるならば、この作は傑作であ・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの人及び芸術」
・・・この旅行の帰途ゴーリキイは政治的移民として、イタリーのカプリ島に行き、一九一三年ロマノフ王家三百年記念大赦令が出るまで八年間カプリに止ることになった。 イタリーでゴーリキイはレーニンによって高く評価された小説「母」を書き、「オクロフ町」・・・ 宮本百合子 「逝けるマクシム・ゴーリキイ」
出典:青空文庫