・・・の字さんはカメラをぶら下げたまま、老眼鏡をかけた宿の主人に熱心にこんなことを尋ねていました。「じゃそのお松と言う女はどうしたんです?」「お松ですか? お松は半之丞の子を生んでから、……」「しかしお松の生んだ子はほんとうに半之丞の・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・平常は冗談口を喋らせると、話術の巧さや、当意即妙の名言や、駄洒落の巧さで、一座をさらって、聴き手に舌を巻かせてしまう映画俳優で、いざカメラの前に立つと、一言も満足に喋れないのが、いるが、ちょうどこれと同様である。しかし、平常は無口でも、いざ・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・り、簡素になり、お能はその極致だという結論に達していたが、しかし、純粋小説とは純粋になればなるほど形式が不純になり、複雑になり、構成は何重にも織り重って遠近法は無視され、登場人物と作者の距離は、映画のカメラアングルのように動いて、眼と手は互・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・ あなたはあの頃、画家になるのだと言って、たいへん精巧のカメラを持っていて、ふるさとの夏の野道を歩きながら、パチリパチリだまって写真とる対象物、それが不思議に、私の見つけた景色と同一、そっくりそのまま、北国の夏は、南国の初秋、まっかに震・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・ ひとりの記者がカメラを私たちの方に向けて叫び、パチリと写真をうつしました。「こんどは、笑って!」 その記者が、レンズを覗きながら、またそう叫び、少年のひとりは、私の顔を見て、「顔を見合せると、つい笑ってしまうものだなあ。」・・・ 太宰治 「美男子と煙草」
・・・神代以来の現象かもしれない。カメラを持った男のきっと交じっているのは近頃のことである。 帰りに青梅を出て間もなく二度までも巡査に呼止められて検査札を見届けられた。「ナーンダ杉並か、馬鹿に小さな札じゃないか」と云って、検査済の紙札の小さい・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・そうしてカメラの対物鏡は観客の目の代理者となって自由自在に空間中を移動し、任意な距離から任意な視角で、なおその上に任意な視野の広さの制限を加えて対象を観察しこれを再現する。従って観客はもはや傍観者ではなくてみずからその場面の中に侵入し没入し・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・第一、実地ではこんなに演奏者を八方から色々の距離と角度で眺めることは不可能であるが、そればかりでなく映画のカメラは吾らの眼の案内をして複雑な管弦楽の編成の内容を要領よく解明してくれる。曲の各部をリードしている楽器を時々に抽出してその方に吾々・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(5[#「5」はローマ数字、1-13-25])」
・・・次にこの行列の帰還を迎える場面でも行列はやはりわれわれ観客の前を横に通過するのであるが、ここでは前と反対にヒロインがその行列の向こう側に見え隠れにあわただしく行ったり来たりしてカメラはこの女の行動と表情を子細に追跡する。そうして女の心の中に・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・観客はカメラとなって自由自在に空中を飛行しながら生きた美しい人間で作られたそうして千変万化する万華鏡模様を高空から見おろしたり、あるいは黒びろうどに白銀で縫い箔したような生きたギリシア人形模様を壁面にながめたりする。それが実に呼吸をつく間も・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
出典:青空文庫