・・・ベートーヴェンの作品でも大きなシンフォニーなどより、むしろカンマームジークの類を好むという事や、ショパン、シューマンその他浪漫派の作者や、またワグナーその他の楽劇にあまり同情しない事なども、何となく彼の面目を想像させる。 絵画には全く無・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ダホメーの音楽とベートーヴェンの第九シンフォニーとの比較でもそうである。 映画についてはどうであるか。たとえば昔からわが国でも座興として行なわれる影人形や、もっと進んでハワイの影絵芝居のようなものも、それが光と影との遊戯であるというだけ・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・ピアノの音からこの旗のはためきに移る瞬間に、われわれはちょうどあるシンフォニーでパッショネートな一楽章から急転直下 Attacca subita il seguente に明朗なフィナーレに移るときと同じような心持ちを味わうのである。 ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・それでたとえば軽い意味の助演者としてのスパークスなどという役者でも決してただのむだな点景人物ではなくて、言わば個性シンフォニーの中の重要な一楽器としての役目を充分に果たしているようである。これに反してヤニングスの場合は彼の「独唱」にただ若干・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・連句が全体を通じて物語的な筋をもたないから連句は低級なものであると考えるのは、表題音楽が高級で、ソナタ、シンフォニーが低級であるというのと同様である。連句は音楽よりも次元的に数等複雑な音楽的構成から成立している。音と音との協和不協和よりも前・・・ 寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
・・・をさらに三つ四つと続けていわゆるソナタやシンフォニーを構成する。この組み立てのほうが連句の組み立てと比較するのにより適当であるように思われる。もっとも正当なソナタやシンフォニーのように四楽章から成る場合だと、第一章が通例早いテンポのソナタ形・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・ その後ある休日の午後、第Xシンフォニーの放送があったとき、銀座のある喫茶店へはいってみた。やはりだめであった。すべての楽器はただ一色の雑音の塊になって、表を走る電車の響きと対抗しているばかりである。でも曲の体裁を知るためと思って我慢し・・・ 寺田寅彦 「路傍の草」
・・・音楽では、職場の音楽でベートーヴェンのシンフォニーの一部を送ってそれが非常によろこばれた例があります。日本では「大衆の娯楽性」というものが、いつも、愚民教育と粗悪なジャーナリズムの植民地として「いやに大切に」芸術ときりはなして扱われる悲劇を・・・ 宮本百合子 「質問へのお答え」
出典:青空文庫