・・・それはあまりたいした成効とは思われなかったが、しかしともかくも人間のドラマのシーンの中間に天然のドラマの短いシーンをはさんで効果を添えるということは、従来よりももっともっと自由に使用してよいわけである。 これに対する有益なヒントはたとえ・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・いわゆるカットバックの技巧で過去のシーンを現在に引きもどすことが随意にできるのもおもしろくないことはないが、これは言わば「フィルムの記憶」の利用であって、人間の脳の記憶の代用に過ぎない。しかし真に不思議なのはフィルムの逆行による時の流れの逆・・・ 寺田寅彦 「映画の世界像」
・・・最後の伯爵のガス排出の音からふざけ半分のホルンの一声が呼び出され、このラッパが鹿狩りのラッパに転換して爽快な狩り場のシーンに推移するのである。あばれ馬のあばれ方は愉快であるが、鹿の走り方は少しおかしい。あれは追わるる鹿ではない。モーリスが馬・・・ 寺田寅彦 「音楽的映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」」
・・・第四ページは消防隊の繰り出す威勢のいいシーン。次は消防作業でポンプはほとばしり消防夫は屋根に上がる。おかしいのはポンプが手押しの小さなものである。次は二人の消防夫が屋根から墜落。勇敢なクジマ、今までに四十人の生命を助け十回も屋根からころがり・・・ 寺田寅彦 「火事教育」
・・・この過程と、映画の一つ一つのカットの連続を見てその一つのシーンの内容を理解する過程とは大体において同じようなものである。映画の製作者はつまり文字の代りにフィルムの断片で文章をかいて、吾々はそれを読んで行くのである。文字の方はその意味を覚える・・・ 寺田寅彦 「教育映画について」
・・・雷の音が次第に急になって最後にドシーンと落雷したときに運拙くその廻送中の品を手に持っていた人が「罰」を受けて何かさせられるのである。 パリに滞在中下宿の人達がある夜集まって遊んでいたとき「ノーフラージュ」をやろうと云い出したものがあった・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
・・・遠い昔の猫の祖先が原始林の中に彷徨していた際に起こった原始人との交渉のあるシーンといったようなものを空想させた。丸裸のアダムに飼いならされた太古の野猫のある場合の挙動の遠い遠い反響が今目前に現われているのではないかという幻想の起こることもあ・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・それゆえに、いろいろな時にいろいろな場所で進行した音響的シーンを勝手な順序や間隔をもってモンタージュ的に配置することができないように見える。しかしこれには蓄音機というものがあって、その盤がちょうど映画のフィルムのごとく記録的に保存されうるの・・・ 寺田寅彦 「ラジオ・モンタージュ」
夏の夜の、払暁に間もない三時頃であった。星は空一杯で輝いていた。 寝苦しい、麹室のようなムンムンする、プロレタリアの群居街でも、すっかりシーンと眠っていた。 その時刻には、誰だって眠っていなければならない筈であった・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・学生のインディアン ダンス五月 十三日 友情についての議論五月 十五日 夏の買物、広場で岩本、南、和田と三人で話す 〔欄外に〕此のシーンはもっと前に持って行ってよろし。五月 二十日 Lake George へ立つ・・・ 宮本百合子 「「黄銅時代」創作メモ」
出典:青空文庫