・・・ 胸を反らして空模様を仰ぐ、豆売りのお婆の前を、内端な足取り、裳を細く、蛇目傘をやや前下りに、すらすらと撫肩の細いは……確に。 スーと傘をすぼめて、手洗鉢へ寄った時は、衣服の色が、美しく湛えた水に映るか、とこの欄干から遥かな心に見て・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・だんだん姿があらわれて来るに随って、影の自分は彼自身の人格を持ちはじめ、それにつれてこちらの自分はだんだん気持が杳かになって、ある瞬間から月へ向かって、スースーッと昇って行く。それは気持で何物とも言えませんが、まあ魂とでも言うのでしょう。そ・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・ 寒い、かび臭い風はスー/\奥から坑口へ向って流れ出て来た。そこで、井村は検査官を待った。公会堂の人のけはいと、唄が、次第に大きくはっきり聞えだした。八番坑のへしゃがれた奴が、岩の下に見えている。そこへ、検査官をつれて行くことを彼は予想・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・フ、プロースチャデイ、バザールノイナ、カランチェー、パジャールノイクルーグルイ、スートキダゾールヌイ、ウ、ブードキスマトリート、ワクルーグ ナ、シェビェール ナ、ユーグ ナ、ザーパド ナ、ウォ・・・ 寺田寅彦 「火事教育」
・・・「青白い細君の病気に窶れた姿がスーとあらわれたと云うんだがね――いえそれはちょっと信じられんのさ、誰に聞かしても嘘だろうと云うさ。現に僕などもその手紙を見るまでは信じない一人であったのさ。しかし向うで手紙を出したのは無論こちらから死去の・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・苔寒き石壁の中からスーと抜け出たように思われた。夜と霧との境に立って朦朧とあたりを見廻す。しばらくすると同じ黒装束の影がまた一つ陰の底から湧いて出る。櫓の角に高くかかる星影を仰いで「日は暮れた」と背の高いのが云う。「昼の世界に顔は出せぬ」と・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・一つの花からスーと波紋がひろがる。こちらの花からもスーと。二つの波紋がひょっと触り合って、とけ合って、一緒に前より大きくひろがって行く。水の独楽、音のしない独楽。一心に眺め入っている子供の心はひき込まれ、波紋と一緒にぼうっとひろがる。何処か・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
・・・とに、最良の、そして最も適切な方向がある。もし、女ばかりの小集団になれば、既成各党は、何の苦痛も感じることなく「ああ、それは御婦人たちの提案で」とスーとわきを通過してしまうだろう。既に、米の三合配給などを公約した婦人たちは、途方にくれる立場・・・ 宮本百合子 「一票の教訓」
・・・ 栄蔵は、娘の言葉が、胸の中にスーと暖くしみ込んで行く様に感じた。 新聞を畳んで、栄蔵は買って来た花の鉢をのせた。 真紅な冬咲きの小さいバラの花が二三輪香りもなく曲った幹について居る。 お君は、それを天竺から降った花でで・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・不意と紺ぽい背広に中折帽を少しななめにかぶった確りした男の姿が歩道の上に現れたと思うと、そのわきへスーと自動車がよって止り、大股に、一寸首を下げるようにしてその男が自動車へのった。すぐ自動車は動いて行った。音のない、瞬間の光景だ。がその刹那・・・ 宮本百合子 「刻々」
出典:青空文庫