・・・太陽は剃刀のようにトマトの畠の上に冴えかえっていた。村の集会所の上にも、向うの、白い製薬会社と、発電所が、晴れきった空の下にくっきりと見られるS町にも、何か崩れつゝあるものと、動きつゝあるものとが感じられた。 僕には、兄が何をやっている・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・ 俺は今朝Nが警察の出がけに持ってきてくれたトマトとマンジュウの包みをあけたが、しばらくうつろな気持で、膝の上に置いたきりにしていた。 控室には俺の外にコソ泥ていの髯をボウ/\とのばした厚い唇の男が、巡査に附き添われて検事の調べを待・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ 私は貧乏なので、なんの空想も浮ばず、十年一日の如く、月末のやりくり、庭にトマトの苗を植えた事など、ながながと小説に書いて、ちかごろは、それもすっかり、いやになって、なんとかしなければならぬと、ただやきもきして新聞ばかり読んでいます。脚・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・云云と、おたがいの腹の底のどこかしらで、ゆるせぬ反撥、しのびがたき敵意、あの小説は、なんだい、とてんから認めていなかったのだから、うまく折合う道理はなし、或る日、地平は、かれの家の裏庭に、かねて栽培のトマト、ことのほか赤く粒も大なるもの二十・・・ 太宰治 「喝采」
・・・必ずしも、仏人ルナアル氏の真似 とうもろこしと、トマト。「こんなに、丈ばかり大きくなって、私は、どんなに恥ずかしい事か。そろそろ、実をつけなければならないのだけれども、おなかに力が無いから、いきむ事が出来ないの。みんなは、葦・・・ 太宰治 「失敗園」
・・・或る小さい駅から、桃とトマトの一ぱいはいっている籠をさげて乗り込んで来たおかみさんがありました。 たちまち、そのおかみさんは乗客たちに包囲され、何かひそひそ囁やかれています。「だめだよ。」とおかみさんは強気のひとらしく、甲高い声で拒否し・・・ 太宰治 「たずねびと」
・・・食卓にのぼる魚の値段を、いちいち妻に問いただし、新聞の政治欄を、むさぼる如く読み、支那の地図をひろげては、何やら仔細らしく検討し、ひとり首肯き、また庭にトマトを植え、朝顔の鉢をいじり、さらに百花譜、動物図鑑、日本地理風俗大系などを、ひまひま・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・ふいと酒を飲みたくなる。トマトを庭へ植えようかと思う。家郷の母へ、御機嫌うかがいの手紙を書きたくなる。これら、突拍子ない衝動は、すべて、どろぼう入来の前兆と考えて、間違いないようだ。読者も、お気をつけるがよい。体験者の言は、必ず、信じなけれ・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・からだじゅう、トマトがつぶれたみたいで、頸にも胸にも、おなかにも、ぶつぶつ醜怪を極めて豆粒ほども大きい吹出物が、まるで全身に角が生えたように、きのこが生えたように、すきまなく、一面に噴き出て、ふふふふ笑いたくなりました。そろそろ、両脚のほう・・・ 太宰治 「皮膚と心」
・・・十坪の庭にトマトを植え、ちくわを食いて、洗濯に専念するも、これ天職、われとわがはらわたを破り、わが袖、炎々の焔あげつつあるも、われは嵐にさからって、王者、肩そびやかしてすすまなければならぬ、さだめを負うて生れた。大礼服着たる衣紋竹、すでに枯・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
出典:青空文庫