・・・それがまたこう及び腰に、白い木馬に跨ったまま、ネクタイだけ前へぶらさげてね。――」「嘘をつけ。」 和田もとうとう沈黙を破った。彼はさっきから苦笑をしては、老酒ばかりひっかけていたのである。「何、嘘なんぞつくもんか。――が、その時・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・老紳士は低い折襟に、黒いネクタイをして、所々すりきれたチョッキの胸に太い時計の銀鎖を、物々しくぶらさげている。が、この服装のみすぼらしいのは、決して貧乏でそうしているのではないらしい。その証拠には襟でもシャツの袖口でも、皆新しい白い色を、つ・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・「何だろう、あのネクタイ・ピンは?」 僕は小声にこう言った後、忽ちピンだと思ったのは巻煙草の火だったのを発見した。すると妻は袂を銜え、誰よりも先に忍び笑いをし出した。が、その男はわき目もふらずにさっさと僕等とすれ違って行った。「・・・ 芥川竜之介 「蜃気楼」
・・・それが黒い鍔広の帽子をかぶって、安物らしい猟服を着用して、葡萄色のボヘミアン・ネクタイを結んで――と云えば大抵わかりそうなものだ。思うにこの田中君のごときはすでに一種のタイプなのだから、神田本郷辺のバアやカッフェ、青年会館や音楽学校の音楽会・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・はあるデパートのネクタイ部で働いている女だったが、かねがね、うちは亀さんみたいに首の短い人は嫌いや、鶴みたいな人が好きやねん、亀さんは借金で首まわれへんさかいなど、わけのわからぬことを口走っていたゆえ、私はくやしまぎれに彼女に「亀さん」とい・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・左翼くずれの同盟記者で大阪の同人雑誌にも関係している海老原という文学青年だったが、白い背広に蝶ネクタイというきちんとした服装は崩したことはなく、「ダイス」のマダムをねらっているらしかった。 私を見ると、顎を上げて黙礼し、「しんみりや・・・ 織田作之助 「世相」
・・・できて脱けられぬと思う、よってもう暫らく待っていただけないか、いま社へ電話しているから、それにしても今日は良いお天気で本当に――、ぼうっとして顔もよう見なかったなんて恥かしいことにはなるまい、いいえ、ネクタイの好みが良いか悪いかまでちゃんと・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・ 極く服装に関わない学士も、その日はめずらしく瀟洒なネクタイを古洋服の胸のあたりに見せていた。そして高瀬を相手に機嫌よく話した。どうかすると学士の口からは軽い仏蘭西語などが流れて来た。「そこはあまり端近です。まあ奥の方へ御通りなすっ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・新郎は大きく出た。「どてらに着換えたら?」「うむ、拝借しよう。」新郎はネクタイをほどきながら、「ついでに君、新しいパンツが無いか。」いつのまにやら豪放な風格をさえ習得していた。ちっとも悪びれずに言うその態度は、かえって男らしく、たの・・・ 太宰治 「佳日」
・・・色つきのワイシャツや赤いネクタイなど、この場合、極力避けなければならぬ。私のいま持っている衣服は、あのだぶだぶのズボンとそれから、鼠いろのジャンパーだけである。それっきりである。帽子さえ無い。私は、そんな貧乏画家か、ペンキ屋みたいな恰好して・・・ 太宰治 「花燭」
出典:青空文庫