・・・彼は焦茶いろの鳥打ち帽をかぶり、妙にじっと目を据えたまま、ハンドルの上へ身をかがめていた。僕はふと彼の顔に姉の夫の顔を感じ、彼の目の前へ来ないうちに横の小みちへはいることにした。しかしこの小みちのまん中にも腐ったもぐらもちの死骸が一つ腹を上・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・このとき、横あいから前に出た老人があったが、ふいのことであり、彼は、この老人を傷つけまいとの一念から、とっさにハンドルをまわしたので、おりから疾走してきた自動車に触れて、はねとばされたのでした。 彼は、直ちに病院へかつぎ込まれました。傷・・・ 小川未明 「空晴れて」
・・・清ちゃんは、ハンドルを握っていました。二人は、いままでゆかなかったような、遠方まで、一息に走ってゆくことができました。「清ちゃん、こんな遠いところまで、たびたびきたことがある?」「きたことはない。きょうは吉ちゃんが、いっしょだから、・・・ 小川未明 「父親と自転車」
・・・そしてハンドルを二、三回廻すと、箱の底へ手紙が落ちる音がした。恵子からの手紙の返事はすぐ来た。冒頭に「あなたは遅かった!」そうあった。それによると最近彼女はある男と結婚することに決まっていた。――「犬だって!」犬だって、これじゃあまり惨・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・同様なわけで器械の工率のディメンションは時間のマイナス三乗を含むから、映写機のハンドルを二倍の速さで回せば、一馬力の器械が八馬力を出して見えるのである。もっともこれは映像の質量と距離とをほぼ正当に評価し想定するためにそうなるのであって、もし・・・ 寺田寅彦 「映画の世界像」
・・・座席に腰かけた人の右手にハンドルがあってそれをぐるぐる回すとチェーンギアーで車台の下のほうの仕掛けがどうにかなるようにできているらしい。たぶん座乗者が勝手に進行の方向を変えるための舵のようなものらしい。 座席に腰かけている人はパナマ帽に・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・このような自動車のハンドルを握って四通八達の街頭に立っているようなものである。同じ目的地に達するのでも道筋の取り方は必ずしも一定していない。そこで径路の選択という問題が起こり、この選択の標準とするものはつまり人間の便宜である、思想の節約であ・・・ 寺田寅彦 「物理学と感覚」
・・・活力節減の方で例を引いてお話をしますと、人力車を挽いて渡世にするか、または自動車のハンドルを握って暮すかの競争になったのであります。どっちを家業にしたって命に別条はないにきまっているが、どっちへ行っても労力は同じだとは云われません。人力車を・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・洋の孤客に引きずり出され奔命に堪ずして悲鳴を上るに至っては自転車の末路また憐むべきものありだがせめては降参の腹癒にこの老骨をギューと云わしてやらんものをと乗らぬ先から当人はしきりに乗り気になる、然るにハンドルなるもの神経過敏にてこちらへ引け・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・ 秋山と云う、ライナーのハンドルを握ってるのが、小林に云った。 それは、鑿岩機さえ運転していないで、吹雪さえなければ、対岸までも聞える程の大声であった。そして、その小林は、秋山と三尺も離れないで、鑿の尖の太さを較べているのだった。・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
出典:青空文庫