・・・それは演奏者の右手が高いピッチのピアニッシモに細かく触れているときだった。人びとは一斉に息を殺してその微妙な音に絶え入っていた。ふとその完全な窒息に眼覚めたとき、愕然と私はしたのだ。「なんという不思議だろうこの石化は? 今なら、あの白い・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
・・・あちらの方がピッチが出ている。「……」とうとう止してしまった。「コケコッコウ」 一声――二声――三声――もう鳴かない。ゴールへ入ったんだ。行一はいつか競漕に結びつけてそれを聞くのに慣れてしまった。 四「あ・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・先年小田原の浜べで大波の日にヘルムホルツの共鳴器を耳に当て波音の分析を試みたことがあったが、かなりピッチの高い共鳴器で聞くとチリチリチリといったように一秒間に十回二十回ぐらいの割合で断続する轢音が聞こえる、それがいくらかこの蝗群の羽音に似通・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 医者が姫君を診察するとき、心臓の鼓動をかたどるチンパニの音、脈搏を擬する弦楽器のピッチカットもそんなにわざとらしくない。 モーリスの出現によって陰気なシャトーの空気の中に急に一道の明るい光のさし込むのを象徴するように、「ミミーの歌・・・ 寺田寅彦 「音楽的映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」」
・・・の揚げ句に終わる芭蕉のパートにはいったいにピッチの高いアクセントの強い句が目に立つ。これに相和する野坡のパートにはほとんど常に低音で弱い感じが支配しているように思われる。「家普請を春のてすきにとり付いて」の静かな低音の次に「上のたよりにあが・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・ 彼の女のために己は蒸溜器の底に日の目をも見ずに、かたく、くらく、つめたく、こびりついて居るピッチのようにしてでも生きて居なければならない」 男は心にそう思って自分を命にかけて思って居る、何も彼もささげつくした女の名をこころでよんで・・・ 宮本百合子 「死に対して」
出典:青空文庫