・・・その日私は湯槽の上にかかっているペンキの風景画を見ながら「温泉のつもりなんだな」という小さい発見をして微笑まされました。湯は温泉でそのうえ電気浴という仕掛がしてあります。ひっそりした昼の湯槽には若い衆が二人入っていました。私がその中に混って・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・ 昨日もちょうどそんな事を考えながら歩いて、つまるところがペンキの看版かきになろうが稲荷や八幡様の奉納絵を画こうがかまわない。やるところまでやると決心したからには、わき目もふれないなどしきりに思い続けて例の森まで行った。 どこを画こ・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・毛布をかむって寝台からペンキの剥げたきたない天井を見た。 戦死者があると、いつも、もと坊主だった一人の兵卒が誦経をした。その兵卒は林の中へもやって行った。 林の中に嗄れた誦経の声がひゞき渡ると、薪は点火せられ、戦死者は、煙に化して行・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ 測量をする技師の一と組は、巻尺と、赤と白のペンキを交互に塗ったボンデンや、測量機等を携えて、その麦畑の中を行き来した。巻尺を引っ張り、三本の脚の上にのせた、望遠鏡のような測量機でペンキ塗りのボンデンをのぞき、地図に何かを書きつけて、叫・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
右手に十勝岳が安すッぽいペンキ画の富士山のように、青空にクッキリ見えた。そこは高地だったので、反対の左手一帯はちょうど大きな風呂敷を皺にして広げたように、その起伏がズウと遠くまで見られた。その一つの皺の底を線が縫って、こっ・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・古い達磨の軸物、銀鍍金の時計の鎖、襟垢の着いた女の半纏、玩具の汽車、蚊帳、ペンキ絵、碁石、鉋、子供の産衣まで、十七銭だ、二十銭だと言って笑いもせずに売り買いするのでした。集る者は大抵四十から五十、六十の相当年輩の男ばかりで、いずれは道楽の果・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・私は、そんな貧乏画家か、ペンキ屋みたいな恰好して、今夜も銀座でお茶を飲んだのであるが、もし、この服装のままで故郷へ現われるものなら、家の人たちは、恥かしさに身も世もあらぬ思いをするであろう。私は、服装に就いて困窮する。そうして奇妙な決心をす・・・ 太宰治 「花燭」
・・・そこへ内務省と大きく白ペンキでマークしたトラックが一台道を塞いで止まってその上に一杯に積んだ岩塊を三、四人の人夫が下ろしていた。それがすむまでわれわれの車は待たなければならないので車から下りて煙草を吸いつけながらその辺に転がっている岩塊を検・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・雨の降る日に二条の鉄路の中央のひどいぬかるみの流れを蹴たててペンキ塗りの箱車を引いて行く二頭のやせ馬のあわれな姿や、それが時々爆発的に糞をする様子などを思い出すことはできる。鉄路が悪かったのか車台の安定が悪かったのか、車は前後におじぎをする・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・その上に意匠の技術を無視した色のわるいペンキ塗の広告がベタベタ貼ってある。竹の葉の汚らしく枯れた松飾りの間からは、家の軒ごとに各自勝手の幟や旗が出してあるのが、いずれも紫とか赤とかいう極めて単純な色ばかりを択んでいる。 自分は憤然として・・・ 永井荷風 「深川の唄」
出典:青空文庫