・・・に載すべき先生の原稿を、角の酒屋のポストに投入するのが日課だったことがある。原稿が一度なくなると復容易に稿を更め難いことは、我も人も熟く承知している所である。この大切な品がどんな手落で、遺失粗相などがあるまいものでもないという迷信を生じた。・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・という短文を書いて、その頃在籍していた国民新聞社へ宛ててポストへ入れに運動かたがた自分で持って出掛けた。で、直ぐ近所のポストへ投り込んでからソコラを散歩してかれこれ三十分ばかりして帰ると、机の上に「森林太郎」という名刺があった。ハッと思って・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・赤煉瓦の建物。ポスト。荒神橋には自転車が通り、パラソルや馬力が動いていた。日蔭は磧に伸び、物売りのラッパが鳴っていた。 五 喬は夜更けまで街をほっつき歩くことがあった。 人通りの絶えた四条通は稀に酔っ払いが通るく・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ 遠くに赤いポストが見える。 乳母車なんとかと白くペンキで書いた屋根が見える。 日をうけて赤い切地を張った張物板が、小さく屋根瓦の間に見える。―― 夜になると火の点いた町の大通りを、自転車でやって来た村の青年達が、大勢連れで・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ 龍介は、ハッキリ自分の恵子に対する気持を書いた長い手紙を出した。ポストに入れるとき、二、三度躊躇した。龍介には「ハッキリ」することが恐ろしかった。がこれから先いつまでもこのきまらない気持を持ち続けたら、その方で彼はだめになりそうだった・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・ここはいちばん近いポストへちょっとはがきを入れに行くにも二町はある。煙草屋へ二町、湯屋へ三町、行きつけの床屋へも五六町はあって、どこへ用達に出かけるにも坂を上ったり下ったりしなければならない。慣れてみれば、よくそれでも不便とも思わずに暮らし・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・「ね、この道をまっすぐに歩いていって、三つ目のポストのところでキスしよう」 女は、からだを固くした。 一つ。女は、死にそうになった。 二つ。息ができなくなった。 三つ。大学生は、やはりどんどん歩いて行った。女は、そのあと・・・ 太宰治 「あさましきもの」
・・・あの夜、あの手紙を書き上げて、そのまま翌る朝まで机の上に載せて置いたならば、或いは、心が臆して来て、出せなくなるのではないかと思い、深夜、あの手紙を持って野道を三丁ほど、煙草屋の前のポストまで行って来ましたが、ひどく明るい月夜で、雲が、食べ・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・その原稿在中の重い封筒を、うむと決意して、投函する。ポストの底に、ことり、と幽かな音がする。それっきりである。まずい作品であったのだ。表面は、どうにか気取って正直の身振りを示しながらも、その底には卑屈な妥協の汚い虫が、うじゃうじゃ住んでいる・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・二、三年前に新聞で読んだ事がある。ポストにマッチの火を投げ入れて、ポストの中の郵便物を燃やして喜んでいた男があった。狂人ではない。目的の無い遊戯なんだ。毎日、毎日、あちこちのポストの中の郵便物を焼いて歩いた。」「それあ、ひどい。」そいつ・・・ 太宰治 「誰」
出典:青空文庫