・・・きこえるのは、薮柑子の紅い実をうずめる雪の音、雪の上にふる雪の音、八つ手の葉をすべる雪の音が、ミシン針のひびくようにかすかな囁きをかわすばかり、話し声はその中をしのびやかにつづくのである。「猫の水のむ音でなし。」と小川の旦那が呟いた。足・・・ 芥川竜之介 「老年」
・・・月に三度の公休日にも映画ひとつ見ようとせず、お茶ひとつ飲みにも行かず、切り詰め切り詰めた一人暮しの中で、せっせと内職のミシンを踏み、急ぎの仕立の時には徹夜した。徹夜の朝には、誰よりも早く出勤した。 そして、自分はみすぼらしい服装に甘んじ・・・ 織田作之助 「旅への誘い」
・・・ ある窓では運動シャツを着た男がミシンを踏んでいた。屋根の上の闇のなかにたくさんの洗濯物らしいものが仄白く浮かんでいるのを見ると、それは洗濯屋の家らしく思われるのだった。またある一つの窓ではレシーヴァを耳に当てて一心にラジオを聴いている・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・その時奥さんは縁側に出て手ミシンで縫物をしていました。顔は百合の花のような血の気のない顔、頭の毛は喪のベールのような黒い髪、しかして罌粟のような赤い毛の帽子をかぶっていました。奥さんは聖ヨハネの祭日にむすめに着せようとして、美しい前掛けを縫・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・そうして奥の一部屋で熟練のお弟子が二人、ミシンをカタカタと動かしている。北さんは、特定のおとくいさんの洋服だけを作るのだ。名人気質の、わがままな人である。富貴も淫する能わずといったようなところがあった。私の父も、また兄も、洋服は北さんに作っ・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・アメリカの能率のよい生産行程では、一つの型紙でもって電気鋏で一度に数百枚の切れ地を切って電気ミシンで縫う。 特に裁縫ではいろいろ細工がある。衣料関係の労働は、こういう大量の既製品製作ばかりではない。金モール細工をする人、刺繍をする人、さ・・・ 宮本百合子 「衣服と婦人の生活」
・・・私はミシンで働いて、お前さんに暖いもの喰べさせていた時分、私たちは、じゃ、どんな言葉で喋ったっていうんだろう? ミーチカ!」 グラフィーラは知っている。ソヴェトには沢山亭主にすてられた女がいるのを。亭主が、やっぱり「育ってしまって」女房・・・ 宮本百合子 「「インガ」」
・・・ウェーンウェーン 母親はミシンを動している これから生れる子供のために 椅子の上には 赤い毛糸の足袋で 小さい女の子が笑っている「お父ちゃまと一緒に 入りたいんだってえば」 母はなおミシンを動している・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ごく皮相にとりあえずそれらの母なる妻たちに授産場を、と思う人は多いが、その材料、その建物、そしてミシンはどこから来るというのだろう。食糧事情は、封建の「家」のふところからさえ、急に過剰人口となったそれらの母子を追いはらおうと欲する。こういう・・・ 宮本百合子 「世界の寡婦」
・・・彼の使ったのはミシンであり、文学者が使わされたのはペンであるということに、悲劇はますます大きいと思います。我とわが頸をおるような仕業を強いられたということは、当時の日本のすべての人民的悲惨のどんな特等席であり得たでしょう。いわゆる人民が上官・・・ 宮本百合子 「討論に即しての感想」
出典:青空文庫