・・・眼を瞑ったようなつもりで生活というものの中へ深入りしていく気持は、時としてちょうど痒い腫物を自分でメスを執って切開するような快感を伴うこともあった。また時として登りかけた坂から、腰に縄をつけられて後ざまに引き下されるようにも思われた。そうし・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・位の御身とて、威厳あたりを払うにぞ、満堂斉しく声を呑み、高き咳をも漏らさずして、寂然たりしその瞬間、先刻よりちとの身動きだもせで、死灰のごとく、見えたる高峰、軽く見を起こして椅子を離れ、「看護婦、メスを」「ええ」と看護婦の一人は、目・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・何の事はない、緑雨の風、人品、音声、表情など一切がメスのように鋭どいキビキビした緑雨の警句そのままの具象化であった。 私が緑雨を知ったのは明治二十三年の夏、或る温泉地に遊んでいた時、突然緑雨から手紙を請取ったのが初めてであった。尤もその・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・と、婦人は、光るメスを、はさみを考えると、身ぶるいをしました。「奥さん、T町に有名な先生があります。この方の手術なら、まったく安心して受けられます。けっして二度とやり直しをするようなことはありませんから、ぜひここへいって見ておもらいにな・・・ 小川未明 「世の中のこと」
・・・描写の文学は、西鶴の好色物が武家、僧侶、貴族階級の中世思想に反抗して興った新しい町人階級の人間讃歌であった如く、封建思想が道学者的偏見を有力な味方として人間にかぶせていた偽善のヴェールをひきさく反抗のメスの文学であろうか、それとも、与謝野晶・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・これを錬え直して造った新しい鋭利なメスで、数千年来人間の脳の中にへばり付いていたいわゆる常識的な時空の観念を悉皆削り取った。そしてそれを切り刻んで新しく組立てた「時空の世界像」をそこに安置した。それで重力の秘密は自明的に解釈されると同時に古・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ろにあるのが通例であるが、これらの映画の切り換えのリズムは一つ一つの相次ぐフィルム切片の駒数を数えて、その数字を適当に図示し曲線でも作ってみれば、それによってこの場合の芸術的効果がいくらか科学的分析のメスにかけられる見込みがあるかもしれない・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・が、現在までのところではただ従来他の方面でよく知られた事実を適用して、それだけで説明し得られる限りの問題だけに触れてはいるが、あの不思議な現象のもっと本質的な根本問題については、あえて試みにでも解析のメスを下そうとすることがまれであるのみな・・・ 寺田寅彦 「量的と質的と統計的と」
・・・その序詩の末段に、Qu'importe! ce n'est pas ta splendeur et ta gloireQue visitent mes pas et que veulent mes yeux ;Et je n・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・ニイチェほどに、矛盾を多分に有した複雑の思想家はなく、ニイチェほどに、残忍辛辣のメスをふるつて、人間心理の秘密を切りひらいた哲学者はない。ニイチェの深さは地獄に達し、ニイチェの高さは天に届く。いかなる人の自負心をもつてしても、十九世紀以来の・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
出典:青空文庫