・・・ 私も一つお前さんの占いを見て貰いにやって来たんだ」「何を見て上げるんですえ?」 婆さんは益疑わしそうに、日本人の容子を窺っていました。「私の主人の御嬢さんが、去年の春行方知れずになった。それを一つ見て貰いたいんだが、――」・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ 丁度昼少し過ぎで、上天気で、空には雲一つありませんでした。昼間でも草の中にはもう虫の音がしていましたが、それでも砂は熱くって、裸足だと時々草の上に駈け上らなければいられないほどでした。Mはタオルを頭からかぶってどんどん飛んで行きました・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ 広間の真中にやはり椅子のようなものが一つ置いてある。もしこの椅子のようなものの四方に、肘を懸ける所にも、背中で倚り掛かる所にも、脚の所にも白い革紐が垂れていなくって、金属で拵えた首を持たせる物がなくって、乳色の下鋪の上に固定してある硝・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・その時クサカは前と変った芸当を一つしたが、それは誰も見る人がなかった。芸当というのは、別荘の側で、後脚で立ち上がって、爪で入口の戸をかりかりと掻いたのであった。最早別荘は空屋になって居る。雨は次第に強くふって来る。秋の夜長の闇が、この辺を掩・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・身体一つならどうでも可いが、机もあるし本もある。あんな荷物をどっさり持って、毎日毎日引越して歩かなくちゃならないとなったら、それこそ苦痛じゃないか。A 飯のたんびに外に出なくちゃならないというのと同じだ。B 飯を食いに行くには荷物は・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ 汐が入ると、さて、さすがに濡れずには越せないから、此処にも一つ、――以前の橋とは間十間とは隔たらぬに、また橋を渡してある。これはまた、纔かに板を持って来て、投げたにすぎぬ。池のつづまる、この板を置いた切れ口は、ものの五歩はない。水は川・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・「一昨年お祖父さんが家へきたときに、大きい銀貨一つずつもらったのをおぼえてるわ」「お父さん、お祖父さんどうして死んだの」「年をとったからだよ」「年をとるとお父さんだれでも死ぬのかい」「お父さん、お祖母さんもここにいるの」・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・に似ていると言って、婦人の前には口にさえ出さぬという――池やら、低い松や柳の枝ぶりを造って刈り込んであるのやら例の箱庭式はこせついて厭なものだが、掃除のよく行き届いていたのは、これも気持ちのいいことの一つだ。その庭の片端の僕の方に寄ってると・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
震火で灰となった記念物の中に史蹟というのは仰山だが、焼けてしまって惜まれる小さな遺跡や建物がある。淡島寒月の向島の旧庵の如きその一つである。今ではその跡にバラック住いをして旧廬の再興を志ざしているが、再興されても先代の椿岳の手沢の・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・これを伝えることは一つの技術であります。短い言葉でありますけれども、このなかに非常の意味が含まっております。たといわれわれが文学者になりたい、学校の先生になりたいという望みがあっても、これかならずしも誰にもできるものではないと思います。・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
出典:青空文庫