・・・ 婆さんはやはり嘲るように、にやにや独り笑っているのです。「貰い子か貰い子でないか、一目見りゃわかることだ。貴様がつれて来なければ、おれがあすこへ行って見る」 遠藤が次の間へ踏みこもうとすると、咄嗟に印度人の婆さんは、その戸口に・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・妻は独りで淋しく夕飯を食った。仁右衛門は一片の銀貨を腹がけの丼に入れて見たり、出して見たり、親指で空に弾き上げたりしながら市街地の方に出懸けて行った。 九時――九時といえば農場では夜更けだ――を過ぎてから仁右衛門はいい酒機嫌で突然佐藤の・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ しかし犬が気持ちよく思うのはこの時もただ独り居る時だけであった。人に摩られる時はまだ何だか苦痛を覚える。何か己の享けるはずでない事を享けるというような心持であった。クサカはまだ人に諂う事を知らぬ。余所の犬は後脚で立ったり、膝なぞに体を・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・自然主義発生当時と同じく、今なお理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い間鬱積してきたその自身の力を独りで持余しているのである。すでに断絶している純粋自然主義との結合を今なお意識しかねていることや、その他すべて今日の我々青年が・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・汗冷たくして独りずつ夢さむ。明くるを待ちて、相見て口を合わするに、三人符を同じゅうしていささかも異なる事なし。ここにおいて青くなりて大に懼れ、斉しく牲を備えて、廟に詣って、罪を謝し、哀を乞う。 その夜また倶に夢む。この度や蒋侯神、白銀の・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・茄子畑の事や棉畑の事や、十三日の晩の淋しい風や、また矢切の渡で別れた時の事やを、繰返し繰返し考えては独り慰めて居った。民子の事さえ考えればいつでも気分がよくなる。勿論悲しい心持になることがしばしばあるけれど、さんざん涙を出せばやはり跡は気分・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・僕はなんでこないに勇気が出るか知らん思たんが気のゆるみで、急に寂しい様な気がした。僕独りで、――聨絡がなかった。こないな時の寂しさは乃ち恐怖や、おそれや。それに、発砲を禁じられとったんで、ただ土くれや唐黍の焼け残りをたよりに、弾丸を避けなが・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・この通弊は単に画のみの問題でなく、また独り日本ばかりの問題でもない。総ての公平な判断や真実の批評は常に民族的因襲や国民的偏見に累わされない外国人から聞かされる。就中、芸術の真価が外国人の批評で確定される場合の多いは啻に日本の錦絵ばかりではな・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・もしある時期に達して小樅を斫り払ってしまうならば大樅は独り土地を占領してその成長を続けるであろうと。しかして若きダルガスのこの言を実際に試してみましたところが実にそのとおりでありました。小樅はある程度まで大樅の成長を促すの能力を持っておりま・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・と、独り言をして、いつまでも聞いていますと、そのうちに日がまったく暮れてしまって、広い地上が夜の色に包まれて、だんだん星の光がさえてくる時分になると、いつともなしに、その音色はかすかになって、消えてしまうのでありました。 また明くる・・・ 小川未明 「青い時計台」
出典:青空文庫