・・・甚太夫はこの話を聞くと、一層病苦に堪えられなくなった。もし兵衛が病死したら、勿論いくら打ちたくとも、敵の打てる筈はなかった。と云って兵衛が生きたにせよ、彼自身が命を墜したら、やはり永年の艱難は水泡に帰すのも同然であった。彼はついに枕を噛みな・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・外のものが皆黒い上衣を着ているのに、この男だけはただ白いシャツを着ているので、背の高いのが一層高く見えるのである。 この刹那から後は、フレンチはこの男の体から目を離すことが出来ない。この若々しい、少しおめでたそうに見える、赤み掛かった顔・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・そんなら、この処に一人の男(仮令があって、自分の神経作用が従来の人々よりも一層鋭敏になっている事に気が付き、そして又、それが近代の人間の一つの特質である事を知り、自分もそれらの人々と共に近代文明に醸されたところの不健康な状態にあるものだと認・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・ 清水は、人の知らぬ、こんな時、一層高く潔く、且つ湧き、且つ迸るのであろう。 蒼蝿がブーンと来た。 そこへ…… 六 いかに、あの体では、蝶よりも蠅が集ろう……さし捨のおいらん草など塵塚へ運ぶ途中に似た・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・おはまは先におとよさんが省作に気があるというのを聞いて、自分がおとよさんと一層近しくなったような心持ちで、おとよさんの膝にすり寄っておとよさんの顔を見上げている。省作はわざと輪からはずれて立って芋をたべてる。政さんはしきりにおとよさんの方を・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・をかぶせ、はしご段の方に耳をそば立てた時の様子を見て、もろい奴、見ず転の骨頂だという嫌気がしたが、しかし自分の自由になるものは、――犬猫を飼ってもそうだろうが――それが人間であれば、いかなお多福でも、一層可愛くなるのが人情だ。国府津にいる間・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・これが縁となって、正直と才気と綿密を見込まれて一層親しくしたが、或時、国の親類筋に亭主に死なれて困ってる家があるが入夫となって面倒を見てもらえまいかと頼まれた。喜兵衛は納得して幸手へ行き、若後家の入夫となって先夫の子を守育て、傾き掛った身代・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・六章二十節以下二十六節まで、馬太伝のそれよりも更らに簡潔にして一層来世的である。隠れたるものにして顕われざるは無しとの強き教訓。十二章二節より五節まで、明白に来世的である。キリストの再臨に関する警告二つ。同十二章三十五節以下四十八節・・・ 内村鑑三 「聖書の読方」
・・・どこか屋根の上に隠れて止まっていた一群の鳩が、驚いて飛び立って、たださえ暗い中庭を、一刹那の間一層暗くした。 聾になったように平気で、女はそれから一時間程の間、やはり二本の指を引金に掛けて引きながら射撃の稽古をした。一度打つたびに臭い煙・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・私は、これ等の学校を卒業して、社会へ子供達が出た時に、学校生活がどれだけ役立ち、また、彼等を幸福ならしむるかと考えさせられるのであるが、これなども、女子に於けるよりは、男の子について、一層、問題となるのであります。・・・ 小川未明 「男の子を見るたびに「戦争」について考えます」
出典:青空文庫