・・・ 大友の心にはこの二三年前来、どうか此世に於て今一度、お正さんに会いたいものだという一念が蟠っていたのである、この女のことを思うと、悲しい、懐しい情感に堪え得ないことがある。そして此情想に耽る時は人間の浅間しサから我知らず脱れ出ずるよう・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・の剣幕が目先に浮んで来て、足は自と立縮む。「もしどうしても返さなかったら」の一念が起ろうとする時、自分は胸を圧つけられるような気がするのでその一念を打消し打消し歩いた。「大河とみ」の表札。二階建、格子戸、見たところは小官吏の住宅らしく。・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・それですからもし、お幸を連れて逃げでもすれば、行く先どんな苦労をするかも知れず、それこそ女難のどん底に落ちてしまうと、一念こうなりましてはかけおちもできなくなったのでございます。 それで四苦八苦、考えに考えぬいた末が、一人で土地を逃げる・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・先達からちょくちょく盗んだ炭の高こそ多くないが確的に人目を忍んで他の物を取ったのは今度が最初であるから一念其処へゆくと今までにない不安を覚えて来る。この不安の内には恐怖も羞恥も籠っていた。 眼前にまざまざと今日の事が浮んで来る、見下した・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり」と書いている。かような宗教経験の特異な事実は、客観的には否定も、肯定もできない。今後の心霊学的研究の謙遜な課題として残しておくよりない。しかし日蓮という一個の性格の伝記的な風貌の特色としては興趣わ・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ただ何とはなしに、しなくてはならないように思ってする、ただ一念そのことが成し遂げたくてする。こんな形で普通道徳に貢献する場合がある。私も正しくその通りのことをしている。しかしこればかりでは地球がいやでも西から東に転ずるのと少しも違ったところ・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・それを言うのも亦、実に、てれくさくて、かなわぬのだが、私は痴の一念で、そいつを究明しようと思う。男子一生の業として、足りる、と私は思っている。辻音楽師には、辻音楽師の王国が在るのだ。私は、兵隊さんの書いたいくつかの小説を読んで、いけないと思・・・ 太宰治 「鴎」
・・・どして、まあ、あさましい、みじめな乞食の親子になりさがり、それでもこの東北のはての生れた家へ帰りたくてならなかったのは、いま考えてみると、たしかにあたしは死ぬる前にいまいちどあたしの美しい母に逢いたい一念からだったのでした。あたしの母は、い・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・しかしどうしても登りたいという一念は幼い胸に巣をくうた。ある時は夢にこの天文台に登りかけてどうしても登れず、もがいて泣き、母に起こされ蒲団の上にすわってまだ泣いた事さえあった。「お前はまだ小さいから登れないが、今に大きくなったら・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・――時にはむらむらと起る一念に窓際に馳けよりて思うさま鏡の外なる世を見んと思い立つ事もある。シャロットの女の窓より眼を放つときはシャロットの女に呪いのかかる時である。シャロットの女は鏡の限る天地のうちに跼蹐せねばならぬ。一重隔て、二重隔てて・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫